徳川家康が「普通の人」だからこそ「天下人」になれたワケ…“天才”信長、“アイデアマン”秀吉との比較にみる「決定的な条件」

徳川家康が「普通の人」だからこそ「天下人」になれたワケ…“天才”信長、“アイデアマン”秀吉との比較にみる「決定的な条件」

NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康は、いわゆる「三英傑」の他の2人、織田信長、豊臣秀吉と比べて地味な印象があります。しかし、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、家康は「普通の人」だからこそ、300年近く続いた江戸幕府という完成度の高い統治システムを構築しえたと指摘します。本郷氏が著書「天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略」(宝島社新書)より、信長、秀吉、家康の違いについて解説します。

「アイデアマン」豊臣秀吉

信長は、国という単位に拘泥せず、自分にとって今、必要な地域はここだと決めて、支配地域を広げていきます。本拠地を次々に変えたのも、政治や軍事、経済の状況を見極めながら、その時々で最も重要な拠点と思われるところに移ったからなのです。

 

「日本をひとつにまとめて、ひとつの権力によって支配する」=「日本をひとつの国とする」こと。すなわち「天下布武」というビジョンを信長の死後、受け継いだのが豊臣秀吉でした。

 

信長は天下統一まであと一歩というところで、明智光秀の謀反に遭い、本能寺の変で討たれてしまいます。この光秀を倒し、信長の後継者レースに勝利した秀吉が、信長のビジョンを見事に実現したのです。

 

信長の死後、徳川家康は落武者狩りに怯え、「神君伊賀越え」によって九死に一生を得る経験をしています。光秀もまた、秀吉に敗れたのちに農民たちによる落武者狩りで討たれています。

 

つまり、信長というカリスマの力で統治された政権は、信長が死ぬと同時にその秩序を一気に瓦解させました。いわばアナーキーな状態になってしまったのです。

 

その意味では、信長の政権は明確に天下統一というビジョンを打ち出しながらも、本能寺の変で討たれた頃にはまだ、ひとつの国としての秩序と体制を盤石にはできていなかったと言えるでしょう。

 

しかし、秀吉の場合はどうでしょうか。秀吉の死後、日本全土がアナーキーな状態になったかというと、そうではありません。豊臣政権は家康をはじめとした五大老と石田三成らの五奉行を中心に運営されました。その後、東軍と西軍に分かれて天下分け目の合戦へと発展しますが、少なくとも信長が亡くなった後のようなアナーキーな状態にはなっていません。つまり、豊臣政権下で世の秩序は保たれていたのです。

 

秀吉は、太閤検地と刀狩などといった全国的な改革策を通じて、複雑に絡み合った土地の権利関係を一本化し、中世の間、続いてきた荘園制のあり方に終止符を打ちました。

 

まさに秀吉の改革によって、中世は終わりを告げ、日本というひとつの大きなまとまりが生まれていったのだと思います。

 

「天下統一」というビジョンを打ち出した天才・織田信長。そして、そのビジョンを引き継ぎ、持ち前の才覚でこれを具体的に実現したアイデアマン・秀吉。

 

この先行する天下人のビジョンとアイデアを引き継ぎ、これを統治システムとして完成させたのが、三人めの天下人・徳川家康でした。

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※本記事は、本郷和人氏の著書『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(宝島社新書)より一部を抜粋・再編集したものです。

天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略

天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略

本郷 和人

宝島社新書

動乱の戦国時代を勝ち抜き、天下を握った武将たち。歴史上、天下統一を初めて見据えて戦を行った織田信長、信長の後を継いで天下人として統一政権を作った豊臣秀吉、秀吉亡き後、戦国の世を終わらせ太平の世を築いた徳川家康。…

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