“検査や治療ができないのは仕方ない”と諦めている現実
獣医学部に在学していた私は、周囲の仲間と同様に東京の大学周辺の動物病院で就職することを漠然と考えていました。しかし、家庭の事情から故郷である茨城県水戸市に戻ることになりました。とはいえ、水戸も東京と同じ関東地域です。必要があればいつでも都内に出られる距離ですから、そのときはよもや、水戸にいながら実は大都市から孤立しているとは夢にも思いませんでした。
2005年に大学を卒業し地元に戻った私はごく一般的な動物病院に就職しました。臨床獣医師としての勉強は、実際の治療を体験してから経験値を積んで学んでいくと思っていたので、これからどのように動物たちと向き合い、病気を治すことができるのかと期待に胸をふくらませていました。私自身、大学在学中には整形外科領域の治療に興味があったので、その領域を中心に少しずつ経験を広げていきたいと考えていたのです。例えば骨折した犬が来院した場合、どのようにして治療するのかと先輩獣医師の対応を目の前で見たり、獣医学書を読んだりしながら知識を深めていくつもりでした。
ところが現実は、そんな悠長な状況ではありませんでした。次から次へと病院に訪れる動物たちは整形外科領域の疾患を負っているだけでなく、ありとあらゆる病気を抱えていました。病院で対応可能なレントゲン検査や血液検査などを実施し、検査結果から推察される病気と診断したうえで、まずはこの薬で様子を見てみましょうという流れになります。薬がうまく効いて症状が落ちつく動物たちもいましたが、投薬治療だけでは症状は良くならず、かえって悪化して亡くなる動物もたくさんいました。
多くの飼い主はそのような状況でかわいそうではあるものの仕方がないと諦めて受け入れているようでした。それでもなんとかしたい、できる限りのことはしたいという飼い主には、検査をしてくれる専門機関や治療実績が豊富な都内の病院を紹介しました。水戸から都内までは早くても車で2時間はかかります。水戸市内では少ない渋滞も都内では少なからずありますから、到着予想時刻よりもさらに時間がかかるはずです。また、都内の二次診療施設に連絡してみると予約が取れない、予約できたとしても受診できるのはしばらく先だということがしばしばありました。
人間よりもずっと体の小さい動物たちは短期間で状態が悪化することも多く、受診できる日を待っている間に命を落とすことも少なくありませんでした。
まれに、都内に住んでいる息子・娘の自宅に滞在しながら通院しているという飼い主もいます。土地勘もない土地で通院を続ける、あるいは入院させたペットの様子を見にいくことが続き、ペットだけでなく飼い主自身まで疲れ果ててしまい、治療半ばにして水戸にペットを連れて戻ってきてしまったということもありました。
そこで私は初めて、人間の医療なら当然のように実施されている医療連携が、動物医療の世界には存在すらせず、大都市を少し離れただけでたちまち必要な治療ができなくなる厳しい現実を知ったのです。首都圏に比較的近いと思っていた水戸市にいながら、動物医療では首都圏がこんなにも遠いとは想像すらしていませんでした。
目の前で尽くす手もなく失われる命をいくつも見ているうちに、自分がなんとかすることはできないものかという気持ちが自然と芽生え始めていました。
病院にある獣医学書を見ていると、命が失われるような重篤な病気であってもいくつかの検査方法や治療法があることは分かります。しかし、今の自分がいるこの場所には検査機器もなければ効果が期待できる治療が可能な機器もそろっていません。
治療する姿は想像できるのに治療できない、医療環境が整っていなければ獣医学書に掲載されている治療は自分の能力だけでできるものではなく、どこか遠い世界の絵空事なのだろうと思ってしまいます。
それがどんな治療法か学んでみたいと思う自分がいる一方、実際にはそのような専門的な講演会やセミナーは東京近辺でしか受講できません。新米獣医師の身では、セミナーや学会に参加してみたいという理由で休暇を申し出ることはできなかったのです。当時はインターネットも今ほど普及していなかったので、地方では獣医学書の入手自体が相当難しく、二次診療施設までの距離も遠ければ、新しい医療の情報からもほとんど隔絶されていることを思い知らされました。