お笑い芸人が出演した番組を見ない理由
渋沢栄一:たとえ師であろうと言うべきときは心を込めて
収録で調子よくガンガン発言しても、編集段階でのカットという編集業務があります。先日も2時間番組のために、収録を5時間ぐらいしていました。もちろん、休憩を入れながらになります。そして、もうこれから発言しても、半分以上はカットされるだろうと出演者たちは見ています。
こういう場合、出演者それぞれに対応が分かれます。「それでも一応やっておこうか?」と、僕はそう思う人間です。なかには露骨に、「これ以上話してもどうせカットだから、この先の盛り上がりはもういらない」と考える人もいます。
せっかく話してもカットされると、話し損になってしまいます。そういう方はもう発言しません。こういう判断が難しいところです。どうしても、こうした計算が働きます。
実際、自分が出演したテレビを見ていると、「あ、ここはカットされたんだな」という見方になってしまいます。
「収録でこの後すぐに盛り上がったんだよ」と一緒に見ていた家族に話すと、そこがばっさりとカットされていて、「え、全然、映らないじゃん」と言われたこともあります。僕も、「あれ? あんなに盛り上がったのにカットか」と思うことがあります。
こんな見方をしてしまうので、テレビは半分仕事モードで見ています。それがどうしても、嫌なときもあります。そういうときには、NHKの「コズミックフロント☆NEXT」で星空を見ています。
テレビ番組はディレクターや監督のもので、僕のものではありません。監督が「そこは違うんだよ」と言ったら、もうそれまでです。それが現実です。お笑い芸人の中には、オンエアを見ないという人が実は大勢います。見るとどうしても落ち込むからです。それから、その監督に文句を言いたくなるからです。
撮る側と撮られる側のおもしろさは、ズレていることが多いです。しかし、監督には監督の、ディレクターにはディレクターの言い分があります。「あそこを入れると、こっちが生きてこないので、泣く泣くカットしました」。カットという切り札を制作する側に握られたまま、お笑い芸人として生き残っていくのは大変なことなのです。
監督やディレクターにいろいろ言い過ぎると、「うるせえ」と言われます。「大木は面倒くさい」と思われてしまいます。そうなると呼ばれなくなりますから、様子を見ながら慎重に話します。しかし、「これは言わないと本当によくならないぞ」というときがあります。そういうときは、一応言います。「この先どうするの?」とちゃんと言います。監督にも迷いがある場合が多々あります。
渋沢さんは、僕の発言に後押しをしてくれます。渋沢さんは『論語』の中で、「仁を実践するにあたっては、師匠にも譲らない」「正しい道理を進むなら、あくまで自分の主張を通してよい」、そして「師匠は尊敬すべき人だが、仁に対してはその師匠にすら譲らなくてもよい」と指摘しています。渋沢さん、勇気をいただきました!
監督の話を聞いていて、「何も考えてないんだな」と思う監督もいます。監督が僕にどう動いてほしいというのか、そういったイメージがまったくない場合です。
こちらが何をやっても、監督は「しっくりこない」と言います。しかし、僕から言わせると、「そりゃそうだよ、おまえが僕をどうしたいと考えてないからだろ?」という本音をぶつけたくなりますが、ぐっと堪えて言いません。
「今日の番組はどちらかな」と思いながら、放送を見ていて、「あ、このディレクターはこれが好きなんだな」と感じます。そういうことも考えつつ、その一瞬一瞬でしゃべることをしゃべる。めちゃめちゃ脳を使います。だから、そのおかげかわかりませんが、何歳になっても半袖短パンで出かけられるぐらいの自分でいたいと思うのです。
ビビる大木