高所得の高齢者には基礎年金はいらない!?
現在の日本には、国から年金給付を受けなくても、自分の生活を維持できるだけの力を持つ高齢者は少なくない。現役世代に多額の財産を築いた人、不動産収入など安定した所得のある人、自分で事業を営み定年に関係なく働ける人、などである。
極端な例かもしれないが、年収1億や2億を稼ぐ大企業のオーナー社長に、基礎年金を給付する意味があるだろうか。大金持ちに対しても、現行制度では例外なく基礎年金は給付される。わずかな基礎年金の給付がなくとも、まったく生活に影響のない高齢者はあまたいる。
政府が高齢者に保障するべきなのは、生活困窮者に対する最低限の生活、つまり、現在の生活保護費と同程度の年金額である。
リタイア後は夫婦で趣味を楽しみたいし、芝居やゴルフにも出かけたいし、年に1回くらいは海外旅行を、などといった、いわゆる「優雅な老後」となると、さすがに政府には保障の責任はない。豊かな老後は、それぞれの努力の結果であり、個人の責任の範囲で実現すべきものだ。
力があるものには、自分で自分の生活を守ってもらい、不幸にも困窮したもののみを救済する。そうすれば、豊かな高齢者へ給付されている基礎年金が、本当に必要な人たちのところへ回るのである。
だが、年金給付以上に、高齢者の生活を豊かにする方法はある。
昔はほぼ対応していた「定年」と「公的年金支給開始年齢」
年金給付の制度変更以外に政府がやるべき仕事、それは、高齢者が元気な間は働き続けることができるような、労働・雇用環境を整備することだ。
現状では、一定の年齢が来れば、ほとんどの人は退職を余儀なくされる。このような定年制は廃止するべきだ。個人の違いを考慮することなく、年齢が来れば一律に働きの現場から退去させられるのは、ある意味では年齢による差別だ。
戦後間もない頃の平均寿命は50歳から60歳だが、この時期の公的年金支給開始年齢は55歳であった。そして、高度成長期の頃の平均寿命は60歳から70歳。公的年金支給開始年齢は60歳である。定年の年齢も、公的年金支給開始年齢にほぼ対応している。
過去の平均寿命と公的年金支給開始年齢の関係を踏まえれば、平均寿命が80歳から90歳の現在では、公的年金支給開始年齢は75歳以上が妥当のはずだ。
ところが現在の公的支給開始年齢はやっと65歳になったばかりである。定年も同じ65歳だ。現在は、平均寿命と公的年金支給開始年齢、定年の差があまりにも大き過ぎる。
「働ける高齢者」まで若い世代に背負わせている日本
健康を維持し、心身ともに充実した状態にありながら、「リタイア」する側に追い立てられた人々を、少数の若い人たちが背負い、養う。そして、働き手が少ないからと移民を計画する。そして、まだまだやる気もあり、働ける有能な高齢者を、わずかな年金給付で困窮に追い込み、その結果生活保護費を増大させる。
現在の日本の政府がやっているのは、こういうことである。
働き手が足りないなら、なぜ高齢者を生かさないのか。そもそも今の国民の健康状態から見て、65歳を超えただけでためらいもなく「高齢者」とくくることに大きな違和感を覚える。
もちろん、健康状態は人それぞれだが、明らかに言えるのは、高度成長期と比較しても、健康で体力を維持した65歳以上は、比較にならないほどたくさんいるということだ。
彼らが働いて収入を維持できれば、消費行動も活発になり、経済効果も期待できる。仕事を通じて社会参加することで、孤独感も軽減し、心身の健康も保てる。近年よく新聞を賑わせている、高齢者による犯罪の数も下がるであろう。
もちろん、高齢者に働いてもらうためには、現在の労働環境を抜本的に改革しなければならない。高齢者の多くは、40代、50代の働き盛りの人々と同じ仕事をすることはできないし、またする必要はない。フルタイムでなく、隔日、あるいは午前か午後だけなどといった、身体に負担をかけない勤務形態でいい。
元気で充実した彼らを、年齢という制限でバッサリと社会から切り捨てるのではなく、まだまだ有用な人材として活躍してもらう。次第に労働の負担を軽くしながら、75歳程度を目途に、本当のリタイアまでソフトランディングしてもらうのである。
もはや年金など当てにできないのだ。そうである以上は、高齢者になっても働こうではないか。そのためには、定年制を廃止し高齢者が元気で働くことのできる社会、働くことが高齢者にとって苦痛ではない社会の実現を求めていくことが必要なのではないか。