物価が安く、気候が温暖なフィリピンでセカンドライフを送る年金生活者は少なくない。彼らの間には、知らない者はいないといっても過言ではない、草分け的存在の女性が存在する。彼女・小松崎さんが移住を決意するまでの過程や、マニラで送った“華々しい生活”、日本人から殺到した“手紙”について、ノンフィクションライターの水谷竹秀氏が解説する。 ※本連載は、書籍『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)より一部を抜粋・再編集したものです。
「フィリピンで日本兵として戦った父」現地人との間に娘が…異母姉妹の送った“劇的な人生” (フィリピン・レイテ島 ※画像はイメージです/PIXTA)

自宅を売却した小松崎さん…一躍“時の人”となったワケ

この再会以降、小松崎さんのフィリピン通いが始まり、徐々に移住へと気持ちが傾いていった。だが、テレシタさんの娘ヘレンさんが「日本へ行きたい」と言い出したため、観光ビザで来日した彼女と土浦市で半年ほど暮らすことになる。

 

日本語を教え、就労ビザを取得するために仕事探しに奔走したが、ようやく見つけた職場の鉄工所が倒産してしまった。ヘレンさんの訪日目的は、日本で働いて貯めたお金でフィリピンの故郷に家を建てることだったが、仕事が見つからなかったため、小松崎さんは土浦市の自宅を売却し、そのお金で彼女に家を建てる青写真を思いつく。

 

そしてフィリピン視察ツアーに参加し、マニラで気に入った建て売り住宅を1350万円で購入した。94年夏に引っ越して以来、日本とフィリピンを行ったり来たりする生活が1年近く続いたが、読売新聞で小松崎さんの生活ぶりが取り上げられてからというもの、日本から次々と手紙が届くようになる。

 

そのほかの大手新聞紙や雑誌などにも紹介され、小松崎さんが主人公のドキュメンタリー番組まで日本で放映された。彼女は一躍、時の人となった。

 

ヘレンさん、メイド2人、お抱え運転手の5人での生活はまさしく「極楽暮らし」で、日本では高額な月謝を理由に手を出せなかったフラメンコの教室に通い、海に対する恐怖症から敬遠していたダイビングにも挑戦し、生まれて初めて色とりどりの熱帯魚に囲まれる別世界を体験した。

 

電子メールを覚え、「小松崎憲子のフィリピン・ロングステイの勧め」と題するホームページを作成してからは、日本だけでなく世界中の日本人から問い合わせが殺到し、日々の習い事に加えてこのメールの返信が忙しさに拍車を掛けた。

 

やがて、ヘレンさんと一緒に退職者ビザの手続き代行業を始め、来比した日本人を自宅に宿泊させるホームステイサービスも提供した。

 

多くの人々から注目の的になった海外生活はさぞかし華やかだっただろう。鼻歌でも歌いながら心を弾ませる小松崎さんの姿が目に浮かんでくるようだ。