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震災を機に「俺フィリピンで暮らしてもいいかな」
あの日、56歳の鏡賢一(かがみけんいち)さんは、山形県北村山(きたむらやま)郡にある奥羽(おうう)本線大石田(おおいしだ)駅にいた。鉄道車両メンテナンスの会社に勤めていた鏡さんは、駅構内にある券売機で作業を行う準備に入った。
「これからメンテを始めますので機械を一旦止めますが、駅員さんは手動で売って頂くようお願い致します」
2011年3月11日午後。鏡さんは駅員にそう説明し終えたところで、突然強い揺れに襲われ、慌てて駅舎の外へ出た。間もなく停電になり、会社の事務所に連絡しようにも電話がつながらない。
とりあえず車で山形市内の事務所に戻ろうとしたが、信号はすべて止まってひどい渋滞に巻き込まれ、到着したのは夜だった。すぐに帰宅し、両親とフィリピン人妻のドミニカさん(43歳)が無事だったことを確認した。
同月下旬、元々休暇を予定していたため、妻と一緒にフィリピンへ行った。妻の両親は心配してこんな言葉を掛けてくれた。
「原発は大丈夫か。危ないところで暮らさないで、暖かいフィリピンで暮らしたらいいじゃないか」
日本へ帰国後、自宅でそのことを伝えると、97歳の父親はぼそっと言った。
「俺フィリピンで暮らしてもいいかな」
父親に以前、フィリピンで暮らそうと誘ってみたところ、きっぱり断られていただけに、鏡さんにとってこの返事は予想外だった。
ドミニカさんと結婚する前、鏡さんは将来受給できる年金額があまりにも少ないことを知り、観光で何度か来ていたフィリピンで定年後は暮らそうと、退職者ビザを取得していたのだった。しかし父親からは一喝された。
「この年で苦労して外国で生きるつもりはない。住み慣れたところをなんで離れるんだ!」
一家で移住する鏡さんの提案に反対した父親。ところが東日本大震災を機に、心境に変化が生まれたようだった。
その後の話はトントン拍子に進み、鏡さんは上司に退社の意を伝えた。そして自宅を売却し、震災発生から7ヵ月後の同年10月、両親と妻の一家4人でフィリピンへ移住した。