物価が安く、気候が温暖なフィリピンでセカンドライフを送る年金生活者は少なくない。彼らの間には、知らない者はいないといっても過言ではない、草分け的存在の女性が存在する。彼女・小松崎さんが移住を決意するまでの過程や、マニラで送った“華々しい生活”、日本人から殺到した“手紙”について、ノンフィクションライターの水谷竹秀氏が解説する。 ※本連載は、書籍『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)より一部を抜粋・再編集したものです。
「フィリピンで日本兵として戦った父」現地人との間に娘が…異母姉妹の送った“劇的な人生” (フィリピン・レイテ島 ※画像はイメージです/PIXTA)

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フィリピンから届いた、「父の娘を名乗る手紙」

フィリピンにおける年金生活者の草分け的存在だった小松崎さん。彼女がフィリピンに住み始めたのは、1994年夏である。当時、68歳だった。

 

そのきっかけは第二次世界大戦に遡る。日本軍と比米連合軍による戦場となったフィリピンでは、1944年10月、マッカーサー連合国軍総司令官がレイテ島に再上陸し、その4ヵ月後にマニラ入城を果たした。

 

劣勢に立たされた日本軍は北へ北へと敗走したが、その中に小松崎さんの父親がいたというのだ。父親は1943年に中国へ出征し、その後、マニラへ移っていた。

 

日本へ帰還したのは小松崎さんが19歳の時で、戻ってきた父親から、現地でフィリピン人女性と暮らしていたことを知らされ、母親が家出した。この結果、小松崎さんの兄弟は、母方と父方に別れてバラバラになった。

 

小松崎さんはその頃、東京の小学校で教頭をしていた叔父から「教員が不足しているから」と声を掛けられ、東京都葛飾(かつしか)区や江東(こうとう)区の小学校に教員として勤めるようになった。地元は茨城県土浦(つちうら)市で、父親と2人で暮らしていた。

 

そこへフィリピンから1通の手紙が届く。差出人は「テレシタ」というフィリピン人女性で、どうやら父親の娘だと訴えている。父親が戦中、ルソン島でフィリピン人女性と暮らしていた時にできた子供だったのだ。

 

小松崎さんは自著の中で「詳しいやり取りは分からないが」と前置きした上で、テレシタさんが通訳の親戚を伴って訪日し、父親に会いに来たと説明している。

 

これを機に、フィリピンからは度々、手紙と写真が届くようになったが、父親は1989年に亡くなった。

 

この悲報を知らせるため、小松崎さんはテレシタさんに手紙を書き、彼女に会うためにマニラへ行くことにした。しかし、クーデターや大地震の影響で、再会できたのは思い立ってから1年後のことだった。

 

「『ワー』という声にもならない声を出しながら、私とテレシタは抱き合いました。その頃の私は、少しは英語がしゃべれるようになっていましたから、まず最初に父の死を報告して、父の形見、父の残してくれた少しのお金、日本から持ってきたお土産を渡しました。そうしたら、テレシタは、『シスターサンキューサンキュー』と涙を流しながら何回も私のことを拝むのです」(原文ママ)