(※写真はイメージです/PIXTA)

高齢化社会が進み、介護に関する話題は尽きません。歳をとるとともに、誰でも体の機能は衰えます。あるいは病魔に侵されてしまい、起きることができなくなってしまう人も大勢いることでしょう。介護される本人の気持ちは、その方自身にしかわかりませんが、同時に介護する側もさまざまな自由が奪われることになります。とくに自宅での介護には様々な問題が潜んでおり、その悩みも人によっていろいろ。果たして自宅介護には、正解はあるのでしょうか。実父の自宅介護生活をお話しながら、闘病生活の一部始終を数回に分けてお伝えします。

壮絶な闘病生活は患者自身と家族の上に降りかかる

これまで気丈なことで知られた父でしたが、落胆具合は目も当てられないほど。同居していない私は母から逐一報告を受けていましたが、日々失われていく自分の筋力を24時間感じているわけですから、相当苦悩されたようです。とはいえ、藁にもすがる気持ちで、少しでも生きられるならという思いもあって投薬治療を続けました。しかし現実は厳しいもの。当初は腕の麻痺と段差に躓いてしまうだけの病状も、やがて足の動きもすべて奪いました。自力で立つこともままならず、救いだったのは、会話はできる、ということだけでした。

 

社長とはいえ、零細企業の経営者という立場ですから、病気だからいますぐ寝て治療に専念する、というわけにはいきません。跡継ぎの弟が代わりに会社を牽引していましたが、父でなければ処理できないことも山積みでした。私は実家から離れていた場所で事業をしていることもあり、手伝いに行けるのは週末くらい。やっと行ったところで、父とお互いに憎まれ口を叩き合いながらも、たまに微笑みを浮かべる顔を見ると、このままでもいいから時間よ、止まれ。父の病状を進行させないでくれ、と祈ったものです。

 

なんとか気を奮い立たせていた父は、PC作業は義妹に口頭で指示、電話はハンズフリーで対応、車いすを積み込める自動車を購入して現場や打ち合わせには弟が運転をして出向くという、難病患者とは思えない奮闘ぶりでした。そうした姿を見て、私たち家族は失望のなかにも勇気を見出し、父を支えながら闘病生活を送りました。

 

症状の改善こそできませんでしたが、発症から約3年。父の病状は小康状態のような感じで、その進行が止まったように感じられました。脳下垂体からのエラー信号が機能を奪っているという記事を読めば、その信号が正しくなればまた動くのではないか、と考え、低周波マッサージを購入して試すこともしてみました。でも、そんな簡単に治る病であれば、父のような患者は激減することでしょう。わずかでも希望を抱きながら対峙した私たちではありましたが、原因不明の病は、容赦なく父の体を蝕んでいきました。

 

車いす生活ではありましたが、食欲は旺盛でした。自分で食べることはできないので、母が口まで運んで食べさせていました。一時は筋肉が少なくなったこともあって減った体重も安定し、介護の日々はひとときの安らぎの時間を迎えたように見えました。そして、奇跡なのでしょうか。ある日、父の足の親指が動いたのです。二度と動くことがないと思っていた体の一部が、本人の意志で。一条の光が、その場にいた全員に差し込んだ瞬間でした。みんなが手を叩いて喜び、父の未来に希望を見出した瞬間でもあったのです。しかし、その喜びは長くは続きませんでした。

 

次回は、施設での介護をすすめる医師たちと、自宅での介護を望む家族の葛藤をお伝えしていきます。
 

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