父親からクリティカルシンキング、母親からは
家族が淡水へ移った頃、私はすでに成人していましたので、小さい頃の記憶にあるのは、老梅の外省人村の風景です。老梅は淡水からそれほど遠い場所ではなく、北海岸の富貴角灯台のそばにあります。以前は、夏休みになると決まってそこへ帰っていました。父や同じ世代の人たちは外省人村で育ちましたが、私自身は外省人村に住んだことはなく、夏休みの思い出くらいしか残っていません。
以前、祖母が妹と一緒に日本へ旅行に行くことになり、祖父も誘ったのですが、結局行くことはありませんでした。祖父はとても優しい人だったので、戦争中の記憶から日本を拒絶するようなことはなかったと思います。彼自身の中に日本に対する何らかのネガティブな感情はあったかもしれませんが、それを孫や子供に植えつけるということを決してする人ではありませんでした。
私自身は、これまで何度も日本を訪れています。初めて行ったのは旅行ではなく、『マジック:ザ・ギャザリング』というカードゲームの大会に参加するためでした。1998年の7月26〜27日の2日間、東京でアジア大会が開かれたときに初めて日本を訪れました。ちなみにその大会における私の成績はアジア8位でした。
両親は、私が日本に行くのは問題ないという考えでした。彼らは自由主義の洗礼を受けていましたので、日本を排斥することは決してありませんでした。そのような家庭なので、父の姉の娘、つまり私の従姉妹の夫は日本人です。日本人と結婚することも、私たち一族ではまったく問題のないことでした。
両親から学んだクリティカルシンキングとクリエイティブシンキング
私の両親はともに『中国時報』という台湾の新聞社で働いていたこともあり、知的かつ進歩的なところがありました。とくに父は読書家で、家には様々な種類の本がありました。私は父の書斎に出入りして、そこにある本を自由に読むことができ、父もそれをとがめるようなことはありませんでした。
父は、私が小さい頃から「ソクラテス式問答法(対話を重ね、相手の答えに含まれる矛盾を指摘して相手に無知を自覚させることにより、真理の認識に導く方法)」を応用して、私と対話を行いました。父は私の意見を否定せず、私に何の概念も植えつけようとしませんでした。あるとすれば、それは「誰からも概念を植えつけられるな」という概念だったと思います。よく言われるクリティカルシンキング、批判的思考法です。
批判的思考法というと、人を単に批判することのように捉える人がいますが、実はまったく異なります。「クリティカル」とは、決して相手を批判するのではなく、自分の思考に対して「証拠に基づき論理的かつ偏りなく捉えるとともに、推論過程を意識的に吟味する反省的な思考法」という意味です。要するに、クリティカルシンキングとは、物事をクリアに捉えるための思考法なのです。父はこのような考え方で私を教育していました。
これに対して、母はクリエイティブシンキングを重視していました。クリエイティブシンキングとは、「既存の型や分類にとらわれずに自分の方向性を見つけていく」思考法です。
母が教えてくれたのはこういうことです。私の考えがたとえ個人的なものであっても、その内容を言語で明確に説明することができれば、同じ考えを持った人に必ずめぐり会うことができる。すると、私が考えたり説明したりしたことは、単なる個人的な考えではなく、公共性のある考えになり、同じ考えや感覚を持つ人が「どうすれば、よりよい生活を送れるか」をともに考えるきっかけになる。いわゆるアドボカシー(社会的弱者の権利や主張を擁護、代弁すること)に発展するというのです。