「病気か、病気でないか」の境目はグレーゾーン
うつ病は、昔は「さぼりがちな人」として多くの人から認識され、病人とは認識されていませんでした。ディスサイミアの人もたぶん怠け者として認識されてきたのが、最近は病気という新たな認識がなされてきたのです。
断っておきますが、私はうつ病やディスサイミアは病気でないとか、あれはやっぱり怠け病だとか、そういう主張がしたいのではありません。それは恣意的な認識なので、みなが「病気にしましょう」というコンセンサスを得ていれば、それで結構なのでしょう。ただ、うつ病という実在物があって、そうである人とそうでない人とを竹を割ったようにぱっかり分けられるわけではないのです。ある人が病気であるかそうでないかは、恣意性が規定しており、それに基づいて認識されるのです。科学的な事実といったものが病気とそうでない人を規定しているわけではないと思います。
医者によって診断名が異なる「心の病」
和田秀樹氏の『精神科医は信用できるか』という本で、相撲取りの朝青龍が「心の病」になったとき、 3人の精神科医の付けた診断名がみんな違っていた、というエピソードが紹介されていました。それは、 1人の精神科医が正しくて他の 2人が間違っている(あるいは 3人とも間違っている)わけではなくて、現象たる朝青龍の症状をどのように名づけるか、 その名前の付け方が異なっていただけなのです。病気が実在せず、病気と認識する現象が あるだけであると理解すれば、このようなことは全然不思議でもなんでもなくなるのです。
ドストエフスキーの小説などを読むと、昔は「狂ってしまう」「憑きものが付く」「おこりがおきる」人が日常的によく見られたようです。亀山郁夫氏訳の『カラマーゾフの兄弟』の解説文を読むと、そうした現象は「神がかり」と呼ばれて、むしろ信仰の対象にすらなったようです。
こうした現象の現代的な説明としては、いまで言う統合失調症(昔の精神分裂病)だったのかもしれませんし、てんかん発作を指していたのかもしれません。あるいは神経梅毒だったのかもしれません。向精神薬や梅毒治療薬、精神科の入院病棟が「狂気」を非日常とし、許容できないものにした、信仰の対象ではなく病気として扱うことに決めた、こういう可能性は十分にあると思います。
神戸大学医学研究科感染症内科教授
岩田 健太郎