行政も国民も河川の存在や役割にもっと関心を持つべき
災害は「防げる」ものと「防げない」ものに大別できる。地震や津波、火山噴火は、場所も規模も時期も事前に特定するのは困難であるため、防ぎ切るのは難しい。それに対して降雨は、予測もできるし対応もできる。つまり「防げる」内容である。
地球表面に降った雨水は、集積しながら低地へと流れていく。その雨水をまとめて海に運ぶのが河川である。洪水被害は降雨量が全てではなく、降雨の集積の仕方、集積水を下流に送る河川の在り方に問題があるのである。
河川は、地球の表面を流れ下る流水によって削られてできた自然の川と、人間が造った人工的なものとがある。自然にできたものも人工的にできたものも併せて、河川は全て役所の所轄であり、管理や責任は役所が管轄している。災害の頻発している既存河川そのものの必要性や必然性、また、河川の用途や役割を今の時代環境から全面的に見直すことが喫緊に必要である。
既存の河川の存在理由を問うてみることこそ、行政の最重要課題である。なぜここに川が流れているのか、この川は何の役割を果たしているのか、災害の勃発する原因を内包しているこの河川の存在に、国民ももっと関心を持つべきである。
■河川の氾濫を誘発する基本的要因は天井川にある
降雨による水は、画一的作用により高き所より低きに移動し海へ流れ込む。この循環を人工的に制御している構造体が河川堤防である。水の流れが始まる「起点」と流末を示す「終点(海抜)」、この間の高低差を水自体の性質で流れ下っているのが河川である。
起点と終点を表す高低差を河底に設定し、最高水位を決定すると、それより高い位置は安全地帯となる。高低差より低い土地は当然水溜まりとなり、そのままでは人は住めない。流水高さより高い土地では浸水の被害は起こらない。水の性質による科学は、非常に単純で明快である。
既存河川で頻発している浸水被害は、高低差を示す河底および流水高と、生活地盤の高さとが原理に合っていない結果である。理想的な河川形態は、標高差を十分取り、流水高さに余裕を持たせるために河川幅を広く取り、流水高の上に生活地盤高をしっかりと確保することである。
既存の河川は、終点となる海抜からの高低差を無視し、既存の生活地盤の上に流水高を持ってくる「天井川」となっている。その天井を支えるのが土を盛り上げた昔ながらの土堤である。
降雨を地表面が受け小さい水路(静脈)で集めて本流(動脈)に流し込むと、本流を流れる水量は段々と容積を増し、水位が高くなって河川内の水圧は上昇していく。その結果、本流(動脈)の水が支流(静脈)の方に逆流していく「バックウォーター現象」が起こる。
本流が上流で集積した水量を下流の支流に押し戻すことになる。本流に集積できない降雨の残量に本流から逆流水が入ってきて積算される。これは全て科学のメカニズムである。
浸水被害のあった鬼怒川も真備町も嵐山も福知山も標高は10メートル~30メートル以上の高い地形の場所である。標高の高い場所で浸水する理由は、河川の河床が高く、天井川の構造となっていることの証明である。
河川の氾濫を誘発する基本的要因は天井川にある。上流の山林伐採や都市化による舗装面の広がりで、浸透水量が減少し一気に水嵩が増す。その対策に土堤を盛り上げて堤防を嵩上げしてきたが、天井川の嵩上げは破堤の危険度を増幅し、自然との共生に逆行しているのである。
科学を無視して河川を恐れ続けるだけの行政
■発展進化が阻まれている既存の防災構造物
流速や高低差のバランスが崩れれば、河川本来の機能は失われる
増幅する降雨量や自然環境に対応して総雨量の収容を拡大するために天井川にするのではなく、河川の高低差を見直し、河川底を掘り下げることが原理的解決方法である。
河川は、広域的に降雨を集める小川(静脈)と、集積した雨水を収容する本流(動脈)とからなるが、本流には流水高を調整する川幅と、流速を調整する勾配が必要である。長距離に及ぶ河川では集積した総雨量が積算されて増幅されていく。
集水の役割と、導水の役割に加えて、総量を下流に導く「導水専用流路」を設けないと逆流の恐れがあり、浸水の危険は払拭できない。
特に都市近郊河川は人間の手によって人工的に造られているが、その計画は全て行政が掌握し管理している。河川全体の雨水の収容容積・流速・流量・高低差、このバランスによる全体の構造物の強度が保たれていて河川は正常に稼働するのである。どこかでバランスを崩せば、河川本来の機能は失われる。
これらの防災構造物は時代と共に発展進化していくべきものでありながら、行政の前例主義の暴挙に阻まれて進化が止まっている。災害の前例を教訓として同じ過ちを犯さないことが人類の唯一の知恵と力であるのにかかわらず、毎年自然の力に打ち負かされて多くの犠牲者を出している。
業界では早くから解決方法を確立している。一日も早い国内全河川の抜本的な見直しが喫緊の課題である。
昔ながらの土堤にいくら金を掛けても、改造しても、根本的な構造原理が大昔にできた人力主体のものであり、非科学的であること極まりない。国民の安全と安心を守る防災構造物は、最新の科学でできた資材と最新技術による工法で構築された責任構造物でなくてはならない。
このように河川のメカニズムは科学に裏付けられた単純な機能で保たれているのである。この機能を高度に維持し守る技術は既に完成している。逃げることばかりに精力を使い、科学を無視して河川を恐れていては、いつまで経っても解決には至らない。
河川堤防の崩壊に対して国民はどう対処すべきか?
■国民の血税を行政が濁流に捨てているようなもの
堤防崩壊のメカニズムはハッキリとしているが、そもそもの原因は、計画段階の調査不足やデータ不足、本質の読み違い、設計上の認識不足や前例主義の踏襲による機材や工法の古さ、役所主導による科学技術検証の無精査と施工上の完成度の低さにある。
土堤原則を踏襲してきた行政は、堤防が土饅頭でできていることに何の違和感も持たず、土堤を新しい建材を使って補強することすら拒み、「土堤に異物を入れるな」と、一喝してきた。堤体の構造や役割は科学で証明できる。
現在使っている堤防の補強材であるシートパイルや鋼管、コンクリート壁体は本来主構成構造体を成し、既存の土堤が異物であることが証明できる。責任構造物は、国民が血税を納めて安全を担保するために行政に任せたものである。
「今夜は大雨が降るから逃げてくれ」ではなく「今夜は大雨が降るからお家でゆっくりと休んでいてください」というのが本筋である。そのために堤防を造ったのである。逃げることが優先なら、最初から堤防は造らず、逃げる手段に金を掛けるべきではないか。
最初から逃げるという「抜け道」をつくるから、安全で安心して暮らせる世の中がいつまで経ってもでき上がらない。造っては壊れ、壊れては造りして、被災地では尊い人命を失い復興には莫大な金を掛けて、また同じことを繰り返している。
これではいつまで経っても、国土に良質な防災資産の蓄積はできない。国民はいくら働いても頑張ってもその代償を、行政が濁流に捨てているようなものだ。
■国民運動を起こして、防災に対する抜本的な改革を検討するべき
国土防災の重大さや課題は、全て行政機関が掌握しているはずである。この行政が公共放送を使い、自治体を使って国民に逃げることを強制している。これは自分が企画し設計して造った堤防が信用できない、国民を守ることができないと言っているのと同じである。
国を代表する防災の専門家が会議を開いて逃げる基準を作成し、「逃げる順番をレベル1から5までとして定めた」という。言語道断であり、何とも腹立たしく情けない限りであり、無責任も甚だしい。
基準レベルをつくって国民に発表するなら、行政主導で造り上げた堤防の脆弱度をレベルで表現すべきではないか。自然災害から逃げることが前提であれば、未来永劫国民の生活の安全と安定は望めない。
逃げて解決することは何もない。政治でも経済でもスポーツでも企業経営でも、受け止めて、立ち向かって初めて解決の糸口は掴める。
現在、堤防崩壊を完全に防ぐ科学技術は既に確立している。行政の取り組みに抜本的な「思考の革命」と「改革」がなくてはこの悲しい事態はいつまでも繰り返される。
国民も、災害に対する真理や実態を知り、税金の使われ方やその役目の意味と意義をしっかりと理解し、国民運動を起こして、防災に対する抜本的な改革を検討するべき時期に来ている。
※本記事は連載『国土崩壊 「土堤原則」の大罪』を再構成したものです。
北村 精男
株式会社技研製作所 代表取締役社長