隠し子を認知していなかった社長が急逝・・・
産業用器機メーカーである二階堂機械の社長、二階堂義広には隠し子がいた。以前から付き合いがある女性、木下華子の子供、義男だ。子供が出来た時には「産まないで欲しい」と伝えたのだが、華子は「あなたには迷惑をかけないから産ませて欲しい」と泣きながら訴えてきたため二階堂社長は腹をくくった。ただ、ひどく身勝手ではあるが、この子のことを妻だけには知られたくなかった。
義男が産まれても、華子から認知を迫られることは一度もなかった。それどころか、華子と二階堂社長が会うことはほとんどなくなり、自然と不倫の関係は終わっていった。二階堂社長は責任を感じ、別れてからも何度となく援助の打診をしたが、華子はかたくなに断っていた。しかし、いつしか社長の押しの強さに負けて、義男が幼稚園に入るときから少しばかりの援助を受けるようになった。
二階堂社長は義男がとても可愛かった。いつも遠くから元気な姿を見ていると、華子に「産まないで欲しい」と言ったことをひどく後悔した。義男が小学校に入学する時には、新入生が必要なもの一式を買い揃えてあげたが、ランドセルに書いてある名前が「二階堂義男」ではなく「木下義男」であることに何とも言えない気持ちになっていた。そんな時、「名前は変えなくとも認知だけは・・・」と思うのだが、事業承継のことを考えると、どうしていいのかわからず、結局、認知ができずにいた。
二階堂社長には、正妻との子供に事業を承継させる準備が整うまで、ことを荒立てたくないという思いがあったのだ。ましてや自分の相続のこととなると、まだまだ現実味もなかった。ただ、自分が生きている間に華子と、義男が十分な財産を受け取れるだけの処理をしなければならないし、正妻にも時期が来れば、何らかの償いをしなくてはとも思っていた。ところが、そんな状態を何年も続けてきたある日、二階堂社長は歩道に突っ込んできた車にひかれ、突如帰らぬ人となってしまった。
父親が死んでから3年以内なら死後認知が可能
二階堂社長の急逝で華子は収入が激減し、家族の生活は一変した。母親の介護をしていた華子は、生活を支えるために昼夜を問わず働かざるを得なくなった。しかし、無理が続いたのか、ある時、華子も体を壊してしまう。そのため、義男は間近に迫った大学進学をあきらめることにしたのだった。
そんな混乱が2年も続き、義男は父親のことをひどく憎むようになった。見るに見かねた華子の親族は、弁護士に相談して「認知訴訟」を起こすことを義男に提案した。義男はそこで父親が死んでから3年以内だと「死後認知」の手続きができることを知ることとなったのだ。
訴えが認められれば、自分も父親の財産の相続権を持つことができる――。母親は訴えをやめるように諭してきたが、二十歳になる義男は自分の決断を変えなかった。父親が自分たちのことをどう考えていたかは知るよしもないが、今は、母親に楽になって欲しいという一心で、弁護士事務所のドアを叩いた。そして、二階堂社長が亡くなってから3年以内のある日、義男は弁護士を通じて二階堂社長の親族に連絡を取り、認知の手続きを始めたのである。