(※写真はイメージです/PIXTA)

年収が高くなるほど、コンサートなどによるクラシック音楽鑑賞、楽器の演奏を趣味とする人は増えています(総務省統計局「令和3年社会生活基本調査」)。富裕層と音楽は、非常に親和性の高い関係にあります。そして、エグゼクティブ向けのメンタルトレーニングのみならず、日本の医療・福祉現場に着実に浸透してきた「音楽療法」。本記事は、日本音楽を学んだ精神科医の牧野英一郎氏の著書『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋・編集し、はるか昔から日本人の感覚に深く根付いてきた特有の感覚「もののね」と、日本人と自然音のかかわりについて見ていきます。

薪の音、母の割烹着、食事の香り…音を伴う情景「もののね」

「もののね」とは、音を伴う情景です。

 

ここでいう「音」には、楽器音だけでなく自然音も含まれます。さらには、そうした音によってもたらされた心の中に現れる景色、感情の景色というべきものなど、聴覚以外の感覚も「もののね」には含まれます。

 

このような一般的な説明だけでは分かりにくいかもしれませんが、次のような情景を思い描いてみると、「もののね」のイメージについて伝わるものがあるかもしれません。

 

子どもの頃、朝まだ暗い時間に起きて寝床の中でうつらうつらしていると、母親がかまどをたいているのか、パチパチと薪(たきぎ)が燃える音がする。

 

そして、ぷーんと、みそ汁のいい匂いがしてくる。

 

思わず飛び起きて「お母さん!」と、みそ汁を作っている母親に飛びついたら、割烹着のまま抱きしめてくれた。

 

そのときの割烹着の手触り、母親の温かみ、みそ汁の香り……。

 

この情景からは聴覚(パチパチいう薪の音)のみならず、嗅覚(みそ汁の匂い)、触覚(母親の割烹着の温かみ)、それから母親への愛情も伝わってくるのではないでしょうか。

 

こうした情景を体験したことがある人が大人になって、たまたまどこかでパチパチという薪の音を耳にしたり、あるいは想い出したりしただけで、このような感覚がすべてひとまとめになって蘇ってくるかもしれません。それが「もののね」です。

「もののね」は『源氏物語』の時代から使われていた

ちなみに「もののね」という言葉は『源氏物語』の時代から使われていました。環境音楽研究家の田中直子氏は次のように述べています。

 

「源氏物語に登場する『もののね』という語は従来は筝や管弦などの器楽を漠然と示すとされていたが、そればかりではなく、楽器が醸し出す音色や感性的な肌あいを意味したり、その音色がその場で聞こえてくる自然音や、聴覚以外の感覚によってとらえられた様々な状況及び雰囲気と調和していることを暗示したりもする」

 

「もの」という言葉には、「物・者」だけでなく「もののけ」や「ものがたり」のように人の感覚を超えた存在という意味があります。また、「ね」にも「音」だけでなく「根」というニュアンスがあるので、「もののね」は人間の心根も含む語と解釈することができるでしょう。

西洋では自然音は鑑賞の対象にならなかった

「もののね」の意味について、より具体的に理解するために、自然音に対する日本人の文化的な伝統を振り返ってみましょう。

 

まず、比較のために、西洋では自然音がどのように考えられていたのかについて触れておきます。

 

西洋では、自然音は音楽とは異なり鑑賞の対象となりませんでした。つまり、西洋人の間に自然音を楽しむ伝統はなかったのです。

 

例えば、西洋クラシック音楽の美学に大きな影響を与えた19世紀の音楽美学者ハンスリックは、自然の音と音楽の音とはまったく関係がないということを執拗に主張し、「我々にとって大事なのは獣の声ではなく、その臓腑であり、音楽が一番感謝を捧げねばならぬ動物は鴬(うぐいす)ではなくて、羊である」と述べています。

 

羊の腸からはガット弦が作られます。弦を数学的な比率で切って並べて張った琴が音階を生じ、これは五線譜に書けますから人間の音楽なのです。かくしてクラシック音楽ホールは外の音など入らぬよう、日本でも頑丈に造られ続けています。

 

羊には感謝しなければなりません。しかし、鳥の歌は、このような人間の音楽とは無関係だから意に留める必要がないと言っているのです。

虫聞き、水琴窟――日本人は自然音を楽しんできた

一方、日本人は昔から、西洋音楽ではあまり取り上げられない自然音をめぐる豊かな文化を育んできました。

 

図表1に挙げた絵は、安藤広重の版画「東都名所」の中にある「道灌山虫聞之図(どうかんやまちゅうもんのず)」です。道灌山は東京・西日暮里にある高台です。そこに描かれているように、江戸時代には、秋になると、日暮れに酒食を携えて野に出て虫の音を聴く「虫聴き」という行楽が、この場所で行われていました。

 

出所:『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より抜粋
[図表1]東都名所 道灌山虫聞之図 出所:『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より抜粋

 

単に虫の音を聴くためだけであれば、虫籠で間に合わせていたはずです。そのほうが簡単で手軽でしょう。丘の上の草むらに男たちが徳利と弁当を広げ、女と子どもたちが上ってくる構図からは、虫の音だけではなく、自然音を伴う情景やそこに出かけて行く活動全体を楽しんでいた様子がうかがえます。

 

また、図表2は「水琴窟(すいきんくつ)」という、自然音を人工的に共鳴させる庭園内の仕かけです。

 

出所:『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より抜粋
[図表2]水琴窟 出所:『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より抜粋

 

家の外、庭先に置かれた御不浄で用を済ませた後、蹲(つくばい)や手水鉢で手を洗います。すると、排水が土中に埋められた甕(かめ)の水面の中に落ちて美しい音が響きます。その音を身体で感じることで、さっぱりとした清浄な気分になるわけです。

 

現在、水琴窟の音はインターネット上で何種類も聴くことができます。庭先と同じく、腰をかがめ身体に緊張感を持って聴くと、録音であっても水琴窟の音はより輝きが増すようです。別の音でも、身体の緊張感と聴こえ方は、簡単に試すことができます。

 

音楽療法では車椅子や寝たきりで音楽を聴く方も多いので、身体感覚と聴こえ方は、今後研究すべきテーマではないでしょうか。また、音響分析では、水の音には人の耳に聴こえる範囲を超えた高周波音が含まれているとされています。高周波音と感性の問題は後述します。

 

 

牧野 英一郎

武蔵野中央病院理事長・院長

※本連載は、牧野英一郎氏の著書『改訂版 日本人のための音楽療法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋・編集したものです。

改訂版 日本人のための音楽療法

改訂版 日本人のための音楽療法

牧野 英一郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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