「姥捨て山」が問いかける、現代社会の介護と家族の限界
現代の日本は物質的な豊かさを享受していますが、「姥捨て山」の伝説が投げかける根源的な問いは、形を変えて現代社会にも存在します。
超高齢社会の到来により、医療費や介護費は増加の一途をたどっています。限られた国家予算の中で、どこまで資源を投入できるかという議論は常につきまといます。医療や介護のための資源が、見えない形で「命の選別」を迫る可能性をはらんでいます。
高齢の子が高齢の親を介護する「老老介護」は、双方の肉体的・精神的負担が大きく、共倒れのリスクがあります。経済的困窮、社会からの孤立、家族関係の悪化といった「介護地獄」の現実は、まさに現代における「見えない姥捨て山」と言えるかもしれません。
自分のキャリアや老後資金を犠牲にしてまで介護に専念すべきなのか。これは、個人が自身の幸福を追求する権利と、家族という共同体を維持する責任との間で、現代における「苦渋の選択」と言えるでしょう。
「姥捨て山」の伝説は私たちに心地よい問いかけとなるものではありませんが、その根底にある「限りある資源の中で、いかに共同体(そして家族)を持続していくか」という普遍的な課題は、現代社会でも重要性を失っていません。
この伝説から得られる教訓は、以下の点に集約できます。
①愛情や理想だけでは乗り越えられない限界があることを認識し、現実的な選択をすることの重要性
②個人の善意や努力だけに依存せず、社会全体で高齢者や介護者を支える仕組みを構築することの必要性
③高齢者の持つ知恵や経験が、共同体にとって価値あるものであるという認識の再確認
④一方的な負担ではなく、親と子が、そして社会全体が、相互に支え合う関係性を築くことの重要性
「親じまい」は、「姥捨て山」が示唆するような極限状況を招かないための現代における「先手の打ち方」です。それは、悲劇的な「棄老」へとつながる前に、理性と愛情を持って、親子の関係性を健全に再構築する試みなのです。
私たちは、かつての「姥捨て山」のような苦渋の選択を、現代社会の「見えない姥捨て山」として繰り返してはなりません。
この伝説が持つ重い教訓を心にとどめながら、親も子も、そして社会全体も、より人間らしく、尊厳を持って生きられる道を模索していくことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。
宗教学者/作家
島田 裕巳