(※本記事で紹介する事例はフィクションです。)
創業から30年、とにかく走り続けた佐伯さん
佐伯さんは高校卒業後、都内の製造業を営む会社に就職した。入社以来、技術畑であったが、管理職となって営業に出る機会が増えたことがきっかけで次第に「自分ですべてをやってみたい」と思うようになり、Y社を設立した。
起業から数年、経営は大変厳しかった。数名の従業員とともに目先の仕事をこなすことで精一杯だった。その後しばらくして軌道に乗り、本社兼工場を建設するまでに成長したものの、一度も後ろを振り返らずに走り続けた。事業承継なんて考えたことがなかった。
社長を交代しようにも親族内承継は断念、従業員承継を選択
佐伯さんには一人息子がいる。一流大学を卒業後、大手証券会社に就職。38歳となった今では管理職となり、さらに次のポストも視界に入っているのだという。やる気に満ち溢れた息子の姿を見ることは父として大変喜ばしい。一方で複雑な思いもある。佐伯さんは息子に「いつかY社に入って、自分の後を継いでほしい」と考えていたからだ。
ある日、佐伯さんは息子に後継者としてY社に入ってほしいと伝えた。すると息子からは「証券会社勤務を続けたい」との言葉が返ってきた。
その後説得を試みたが、息子の意思は変わらなかった。だからといって、お客様や従業員の雇用を守るために事業承継を諦めるわけにはいかない。しかし、社内を見渡しても技術職ばかりでとても「経営者」という雰囲気をもった社員はいない。佐伯さんはM&Aや廃業も含めて考え抜いた末、「最古参の上原(仮名)にお願いするしかない」という結論に至った。上原さんの返事は「お引き受けします」だった。
なんとか後継者候補が見つかった佐伯さん。「まずは人脈の引継ぎが大事」という思いから、上原さんを取締役に就任させるとともに、取引先や金融機関、経営者同士の会合の場に積極的に同席させた。その結果、社内外における上原さんの存在感は次第に増し、上原さんもこれまで以上にやる気を出して仕事に取り組んだ。
Y社の重要な意思決定についても徐々に権限委譲することができるようになり、いよいよ佐伯さんは社長交代を本格的に考え始めた。併せて、自らが所有しているY社株式の承継についても具体的に検討し始めた。
佐伯さん「Y社株式は1,000万円で引き受けてもらいたい」
Y社の直前期決算の主な内容は【図表】の通りである。
佐伯さんは会社を引き受けてくれる上原さんに対し、「なるべく負担をかけたくない」という気持ちであったが、長年連れ添ってくれた妻、一人息子のためにお金を残してあげたいという想いもあった。そのため、Y社株式は1,000万円程度で上原さんに購入してもらいたいと考えた。
佐伯さんは上原さんに自身の考えを伝えた。
「Y社は現預金が潤沢にあるわけではないので、役員退職金はいらない。ただし、家族には幾ばくかの現金を残してあげたい。Y社株式は1,000万円で買い取ってほしい」
上原さんは資本金相当額である300万円で自社株を引き受けるつもりだったため、1,000万円という金額に対して大きな抵抗感があったが、佐伯さんの家族への気持ちを汲み、承諾することにした。
ところが、税理士から告げられた「株式評価額」に驚愕
佐伯さんは株式評価のルールについて詳しかったわけではないが、「利益や純資産が大きければ大きいほど評価額が高くなる」ということは知っていた。直前期の利益がわずかであったことから、佐伯さんは1,000万円程度でY社株式を売却しても問題ないだろうと予想していた。
後日、株式の評価を依頼していた税理士から連絡があった。
「Y社の税務上の株式評価額は約4,000万円です。社長と上原さんは第三者の関係といっても、1,000万円ではさすがに『安すぎる』と税務当局から指摘されてしまう可能性があります」とのことだった。
――会社の株式ってこんなに高いの!?
「ウチなんて大したことない」と思っていた佐伯さんは驚いた。
上原さんは株式を引き受ける覚悟をもてなかった
税理士によれば、「20数年前に購入した本社兼工場土地、過去に特別償却*を適用している機械装置の含み益の影響が大きい」との理由で純資産額を超える評価額になったとのことだった。佐伯さんは「私は1,000万円で構わない」との思いだったが、税理士から「評価額との差額が『贈与である』と指摘されるかもしれない」との説明を受け、上原さんと相談することにした。
*特別償却…早期に減価償却できる優遇税制。株式評価上、機械装置は特別償却を適用しなかったものとして計算した金額で評価すること等が一般的。
上原さんは「1,000万円以上の借金は負いたくない」の一点張り。何度も交渉を繰り返したが、結果的に株式の売買には至らなかった。佐伯さんはモチベーションの下がった上原さんに社長の座を譲るわけにもいかず、今も働き続けている。
事業承継は「株式評価」から始めると効率的
中小企業庁がまとめている「中小企業白書」によれば、全国の中小企業の後継者不在率は約6割です。「後継者不足」が中小企業の事業承継の大きなハードルであることは間違いありませんが、必ずしもそれだけが理由ではないと考えます。
経営者の年代別に見た事業承継の意向や後継者の選定状況に関する調査において、60歳代の35.9%、70歳代以上の28.5%が「未定である・分からない」と答えています。つまり、何から始めればよいのか進め方が分からないのです。
事業承継は「経営承継」(=社長の地位の承継)と「株式承継」(=株主の地位の承継)の2つから構成されており、それぞれ多くの検討事項があります。加えて、会社オーナーの相続といった個人の論点も含めて検討する必要があります。いずれもバランスよく進めることが望ましいですが、まずは株式評価に取り組むことが効率的です。
株式を評価すると事業承継のキーワードが次第に見えてきます。例えば経営者の相続。株式を相続した後継者には相続税がいくらかかるのか、後継者以外の相続人に遺せる財産は確保されているのか。どんどん課題が見えてくるので、その都度解決していけばよいのです。
また、株式評価は「課題の早期発見」にも役立ちます。佐伯さんの場合、株式評価に取り組んだ結果、「売買価格」や「上原さんの心理的負担」がハードルとして顕在化しました。もっと早い段階で株式の評価額を把握できていれば事前に何らかの対策を講じることができたかもしれませんし、上原さんも心の準備ができたかもしれません。
事業承継は企業が中長期的な視点で取り組むべき重要な経営課題です。経営者の皆さんは適切な相談相手を見つけるとともに、株式の評価額を定期的に把握しておくことが望ましいでしょう。
岡本 啓司
税理士法人プレアス 代表 税理士
小池 俊
税理士法人プレアス 副代表 兼 東京支社長 税理士
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