豊臣秀吉の支配のもと、着々と築いた「天下」の土台
豊臣秀吉(とよとみひでよし)のあだ名はサル。では徳川家康(とくがわいえやす)はどんな動物にたとえられていたのでしょうか。それは、タヌキです。どうして、人を化かす「タヌキじじい」と呼ばれたのか。まず江戸幕府(えどばくふ)ができるまでを説明していきましょう。
朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい〔1592年 文禄の役<ぶんろくのえき>、1597年 慶長の役<けいちょうのえき>〕)は失敗に終わり、秀吉の死後、朝鮮(ちょうせん)から引き上げました。
このとき、家康は朝鮮出兵に参加していませんでした。これが彼の運命を変えることになります。もともと三河(みかわ〔愛知県〕)の小さな戦国大名であった家康は、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉の天下統一を助けることで力をつけていきました。秀吉が天下統一を果たした後、家康は秀吉に呼ばれました。
秀吉「北条氏(ほうじょうし)が治めていた関東をあげるから、そっちに引っ越してね」
家康「ははっ、わかりました」
もちろん心の中ではイヤに決まっていますが、出世のために感情を押し殺すサラリーマンのように、家康はじっと耐えたのです。天下統一した秀吉の命令となれば、逆らうことはできません。カリスマ社長から嫌われたら、そこで出世街道は終わってしまいます。
だから、慣れ親しんだ三河からあっさり引っ越したのです。関東地方は北条氏の残党がいて、いつ反乱が起きてもおかしくない状態です。土地が増えても嬉しくありません。しかも、家康が江戸(今の東京)に来たとき、「城、ちっちゃ!」とびっくりしたそうです。
江戸城(えどじょう)は15世紀半ばに太田道灌(おおたどうかん)によって築城されました。そのときの城が、150年近くたってもそのままの形で残っていたのです。
家康は決意します。この江戸を立派な都市につくり直してみせるぞ、と。左遷された部長が、この部署を立て直してやろうと意気込む感じです。
信長も安土(あづち)という町を整備し、楽市・楽座(らくいち・らくざ)を行い、商業を発展させました。家康も信長にならったのかもしれません。与えられた場所で花を咲かせようとする姿勢は、立派です。
そんなとき、秀吉が朝鮮出兵を行うことになりました。ここはさすがの家康。タヌキじじいと呼ばれただけあります。「北条氏の残党が反乱を起こすと大変です。私まで朝鮮に攻めたら関東が大変なことになってしまいます」と言って、朝鮮出兵には参加しませんでした。
肥前(ひぜん)の名護屋城(なごやじょう)までちょっと行っただけで戦わなかったのですから、皆がボロボロになって帰ってきたときも、家康は何も傷つくことなく、しかも江戸の町を大いに発展させていました。
「織田がつき、羽柴(はしば)がこねし天下餅(もち)」という狂歌(きょうか)が江戸時代に詠まれましたが、いよいよ天下餅を家康が食べるときがやってきました。
信長も秀吉もすでに死んでいます。しかも、他の戦国武将たちは朝鮮出兵で傷ついて帰ってきた…こんなチャンスは二度とないと思ったのでしょう。
家康は、秀吉の死後、豊臣家を支える石田三成(いしだみつなり)と対立し、1600年「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原(せきがはら)の戦い(岐阜県)で勝負を決めることになりました。
見事「関ヶ原の戦い」に勝利…家康の「お手紙」作戦
じつは当初、徳川家康率いる東軍は不利でした。石田三成率いる西軍のほうが強かったのです。このとき、家康は東海道(今の神奈川県~静岡県~愛知県)を通って関ヶ原につきました。
一方の息子の徳川秀忠(ひでただ)は、中山道(なかせんどう〔長野県など〕)を通ってきたのですが、なんと関ヶ原の戦いに遅刻するという大失態! 家康は不利な状況で戦い始めることになりました。
ところが、西軍内での裏切りが続出し、家康率いる東軍に寝返ったのです。家康は戦いの2ヵ月前から、「こちらの味方をしたほうがいいよ」という手紙を150通以上もいろいろな人に送っていたそうです。その手紙の成果があったのでしょうね。
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