開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」
館名の「アーティゾン ARTIZON」は「Art」と「Horizon」をつなぎ合わせた造語。
美術館を運営する石橋財団のコレクションは、ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者、石橋正二郎氏(1889~1976)の蒐集品がベースとなっています。正二郎氏は1927年頃(38歳頃)から絵画の収集を開始、青木繁、坂本繁二郎、藤島武二といった日本洋画の作品群からセザンヌ、モネといった西洋近代絵画へとコレクションを広げ、1952年にブリヂストン美術館を開館、56年には石橋財団を設立します。
76年の正二郎氏逝去後も財団は収集・展示活動を継続し、現在、古代芸術から2000年以降の作家まで、約2,800点を所蔵しています。
開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」(2020年1月18日~3月31日)は、第1部「アートをひろげる」と第2部「アートをさぐる」で構成され、6階から4階までの3フロアを使用して206点が展示されました。
第1部「アートをひろげる」では、1870年代のエドゥアール・マネからはじまり、西洋近代絵画史を主軸としつつ、印象派、キュビスム、フォーヴィスム、具体美術協会、抽象表現主義…と、2000年代までの作品が制作年代順に展示されました。
ピカソとマティスの間に関根正二※1の《子供》(1919年作)が。モネ、ヴラマンク、アンリ・ルソーを見た後に、同館の目玉であり、洋画で初めて国の重要文化財に指定された青木繁《海の幸》(1904年作)が現れるなど、同時代の外国作品と並列されている日本洋画の名品も目を惹きます。
第2部では、時代や地域、作家のグループ(キュビスムなど)という慣れ親しんだ枠組みではなく、「芸術家の創造のいわば駆動力となっていたエレメントを探ることを趣旨とし」※2、装飾、古典、原始、異界、聖俗、記録、幸福の7つのテーマに沿って、約20点ずつが選出されていました。
第1部で紹介されていた作家が第2部にも登場しており、展示位置を比較しながら鑑賞することで、絵画史の大きな流れの中にいる画家の姿と、彼らの一個人としての姿や私的に抱えていた世界観の両方を知ることができる構成となっていました。
たとえば、第1部では絵画史の流れの中で印象派に関する画家として、《睡蓮の池》(1907年作)などの展示位置が決められていたクロード・モネが、第2部では「記録」「異界」の2つのテーマに登場。
「記録」ではセーヌ河沿いの町、アルジャントゥイユ※3の洪水をモチーフに眼前の自然災害を描いた《アルジャントゥイユの洪水》(1872-73)が。「異界」では、彼が自宅の庭に作った睡蓮の浮かぶ池で、時間や季節によって変わる光の効果の追及に没頭したことから生まれた《睡蓮》(1903年作)が展示されていました。
また、6階展示室の一番奥には、アーティゾン美術館のデザインコンセプトを解説するスペースが展開されており、なぜ床はこの色なのか、なぜ壁はこのように塗られているのかなど、アーティゾン美術館が美術作品に対してどのように向き合い、間取りや内装素材、照明機材を選んだのか、展示を通して館の個性に触れることができました。
なぜ近代絵画は「マネ」からはじまるのか?
本展は展示も展覧会図録も、エドゥアール・マネ(1832~83)の《自画像》(1878-79年作)から始まります。これは、西洋絵画史において、近代のはじまりの位置にマネが位置付けられていることに由来しています。
1848年、マネが16歳の時、二月革命によって七月王政(オルレアン朝国王ルイ・フィリップ)が倒れ第二共和政がスタート、ブルジョワ(富を蓄え高い学識を持つ市民階級)が中心となって、選挙権の拡大や市民の参政など自由主義的な政治改革が進められていました。
同年、ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンが大統領選挙に当選、1851年にクーデターを起こして独裁権を握り、52年には人民投票で皇帝の位につきます(第二共和制の終焉)。その後自身をナポレオン3世と称し、1870年まで独裁を行いました(フランス第二帝政)。
ルイ・ナポレオンの統治下では、パリを政治的にだけではなく視覚的にも近代化させることが進められ、オペラ座の建築やシテ島の貧民追放、大通りの整備などの都市開発が「古いパリ」を飲み込んでいきました。政治、都市の近代化を目の当たりにした市民は、その他の諸分野においても近代化が行われることを期待します。
この気運の中で、自らもブルジョワ家庭の子息であったマネは、最新の生活を、伝統にとらわれない技法で描くことで絵画の近代化に取り組みました。
当時フランス美術界において最大の影響力を持っていたのはサロン(官展)でした。
サロンのはじまりは、フランスの美術教育において最高機関であった王立アカデミーが、1737年ごろに所属画家の作品を発表するために開催した展覧会。王政が失われてからは美術行政に開催が引き継がれ、1880年に民営化します。マネが参加した頃のサロンは応募作品に対して審査委員が良し悪しをつけて入選作品を展示する、現代でもよく見られる公募展の形式で開催され、入選することで画家としての評価が高まり、国からの仕事も入るようになりました。
その審査基準は審査委員によって多少変化しますが、基本的には古代、ルネサンスより連綿と続く伝統技法を継承した作品、具体的にいうと、ルーヴル美術館の壁に所狭しとかけられているような、宗教や歴史、美しい農村を主題とした、色調の微妙なぼかしを用いた細密で写実的、そして陶器の肌のように艶やかで光沢のある仕上げで描かれた作品を良しとしました。
当時のサロンは排他的で新しい表現に対する評価は辛く、マネはサロンやそれに依って美の基準を育んだ市民からバッシングを受けます。
最も認められなかったのはマネの絵の仕上げ方でした。
《自画像》に戻ってみると、絵筆の跡がはっきりと見え、衣服の細かいシワは省略されています。
また、色と色の間に滑らかな階調はなく、足元に注目すると、影が色紙を切ったようなはっきりとした形で描かれています。
肉付けがなく平面的で、色彩片を組み合わせたような筆致はサロンの評価基準からは外れたものであり、ぼかしも艶もない前衛芸術家マネの作品は、おおざっぱで、仕上げが十分でない、途中段階の絵として酷評されました※4。
そして同時に、「制作途中のような」彼の作品は、絵画とはキャンバスという布切れに乗った絵の具だということを見る者に思い出させ、サロンやアカデミーがキャンバス一面を均一に塗りつぶし、完璧な画面を作ることで守ってきた、絵画の中に無限に広がる神話と幻想の空間を真っ向から打ち砕いてしまったのです。
エドゥワール・マネとアートオークション
最後に近年のアートオークション市場におけるマネ評価に触れます。
国内のアートオークションにおけるマネの売買実績は、残念ながら版画作品を除いてほぼありません。
海外の履歴を参照すると、Sotheby’s New Yorkにおいて、2018年11月、本展の展示作《メリー・ローラン》(キャンバスにパステル、41.6×37.1cm・1882年)と類似した女性の肖像画、《Jeune femme decolletté》(キャンバスにパステル55.5×46.3cm・1882年作)がエスティメイト300,000~400,000ドルで出品され519,000ドル(約5,860万円) で落札、2019年5月には同様の若い女性の肖像画、《Jeune fille au col cassé de profil》(キャンバスにパステル48.2×39.0cm・1880年頃作)がエスティメイト700,000~1,000,000ドルで出品され860,000ドル(約9,370万円)で落札されています。
代表作《Le bar aux folies -bergèreフォリー・ベルジェールのバー》(1882年作)のための下絵である《Le bar aux folies -bergère ※タイトルは同一》(キャンバスに油彩、47.0×56.0cm・1881年作)が2015年6月のSotheby's Londonに出品された際は、エスティメイト15,000,000~20,000,000ポンドに対して、16,949,000ポンド(約32億8,800万円、当時194円/ポンド)の落札価格が付きました。
また、2014年10月にChristie's New Yorkに出品された、傘を差した夫人の油彩作品、《Le Printemps 春》(キャンバスに油彩、71.0×51.5cm・1881年作)はエスティメイト25,000,000~35,000,000ドルで出品され、破格の65,125,000ドル(約73億5,900万円)で落札されています。
やはり美術史的評価の高さと流通作品の少なさからマネのマーケットプライスは高水準をキープ。入手困難な作家と言えます。
国内においてはアーティゾン美術館の他に国立西洋美術館、ポーラ美術館、ひろしま美術館、大原美術館などがマネ作品を所蔵しており、常設展などの機会に触れることができます。