日本人にとってアートは「一部の愛好家のもの」という認識が強くあります。一方世界、特に欧米では、絵画をはじめとするアート作品は実物資産として富裕層を中心に身近な存在です。またグローバル企業のなかにはアートで美意識を磨き仕事に活かすという流れがあり、富裕層のみならず、一般層にもアートの興味・関心は広がりつつあります。本連載ではShinwa Auction株式会社の高井彩氏が、アートを身近に感じることのできる美術館や展覧会をレビュー。見所や展示されているアートの市場価値などを紹介していきます。今回取り上げるのは、「アーティゾン美術館 (ARTIZON MUSEUM)」。

開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」

館名の「アーティゾン ARTIZON」は「Art」と「Horizon」をつなぎ合わせた造語。

 

美術館を運営する石橋財団のコレクションは、ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者、石橋正二郎氏(1889~1976)の蒐集品がベースとなっています。正二郎氏は1927年頃(38歳頃)から絵画の収集を開始、青木繁、坂本繁二郎、藤島武二といった日本洋画の作品群からセザンヌ、モネといった西洋近代絵画へとコレクションを広げ、1952年にブリヂストン美術館を開館、56年には石橋財団を設立します。

 

76年の正二郎氏逝去後も財団は収集・展示活動を継続し、現在、古代芸術から2000年以降の作家まで、約2,800点を所蔵しています。

 

開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」(2020年1月18日~3月31日)は、第1部「アートをひろげる」と第2部「アートをさぐる」で構成され、6階から4階までの3フロアを使用して206点が展示されました。

 

第1部「アートをひろげる」では、1870年代のエドゥアール・マネからはじまり、西洋近代絵画史を主軸としつつ、印象派、キュビスム、フォーヴィスム、具体美術協会、抽象表現主義…と、2000年代までの作品が制作年代順に展示されました。

 

ピカソとマティスの間に関根正二※1の《子供》(1919年作)が。モネ、ヴラマンク、アンリ・ルソーを見た後に、同館の目玉であり、洋画で初めて国の重要文化財に指定された青木繁《海の幸》(1904年作)が現れるなど、同時代の外国作品と並列されている日本洋画の名品も目を惹きます。

 

第2部では、時代や地域、作家のグループ(キュビスムなど)という慣れ親しんだ枠組みではなく、「芸術家の創造のいわば駆動力となっていたエレメントを探ることを趣旨とし」※2、装飾、古典、原始、異界、聖俗、記録、幸福の7つのテーマに沿って、約20点ずつが選出されていました。

 

第1部で紹介されていた作家が第2部にも登場しており、展示位置を比較しながら鑑賞することで、絵画史の大きな流れの中にいる画家の姿と、彼らの一個人としての姿や私的に抱えていた世界観の両方を知ることができる構成となっていました。

 

たとえば、第1部では絵画史の流れの中で印象派に関する画家として、《睡蓮の池》(1907年作)などの展示位置が決められていたクロード・モネが、第2部では「記録」「異界」の2つのテーマに登場。

 

「記録」ではセーヌ河沿いの町、アルジャントゥイユ※3の洪水をモチーフに眼前の自然災害を描いた《アルジャントゥイユの洪水》(1872-73)が。「異界」では、彼が自宅の庭に作った睡蓮の浮かぶ池で、時間や季節によって変わる光の効果の追及に没頭したことから生まれた《睡蓮》(1903年作)が展示されていました。

 

また、6階展示室の一番奥には、アーティゾン美術館のデザインコンセプトを解説するスペースが展開されており、なぜ床はこの色なのか、なぜ壁はこのように塗られているのかなど、アーティゾン美術館が美術作品に対してどのように向き合い、間取りや内装素材、照明機材を選んだのか、展示を通して館の個性に触れることができました。

 

6F会場内風景。会場内は一部作品を除いてカメラ・スマートフォンでの撮影が可能。気に入った作品を会場風景ごと手元に残すことができる(著者撮影)
6F会場内風景。会場内は一部作品を除いてカメラ・スマートフォンでの撮影が可能。気に入った作品を会場風景ごと手元に残すことができる(著者撮影)
関根正二《子供》(キャンバスに油彩、60.9×45.7cm・1919年作)(著者撮影)
関根正二《子供》(キャンバスに油彩、60.9×45.7cm・1919年作)(著者撮影)

なぜ近代絵画は「マネ」からはじまるのか?

本展は展示も展覧会図録も、エドゥアール・マネ(1832~83)の《自画像》(1878-79年作)から始まります。これは、西洋絵画史において、近代のはじまりの位置にマネが位置付けられていることに由来しています。

 

本展はじまりの1枚、エドゥアール・マネ《自画像》(キャンバスに油彩、95.4×63.4cm・1878-79年作)(著者撮影)
本展はじまりの1枚、エドゥアール・マネ《自画像》(キャンバスに油彩、95.4×63.4cm・1878-79年作)(著者撮影)

 

1848年、マネが16歳の時、二月革命によって七月王政(オルレアン朝国王ルイ・フィリップ)が倒れ第二共和政がスタート、ブルジョワ(富を蓄え高い学識を持つ市民階級)が中心となって、選挙権の拡大や市民の参政など自由主義的な政治改革が進められていました。

 

同年、ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンが大統領選挙に当選、1851年にクーデターを起こして独裁権を握り、52年には人民投票で皇帝の位につきます(第二共和制の終焉)。その後自身をナポレオン3世と称し、1870年まで独裁を行いました(フランス第二帝政)。

 

ルイ・ナポレオンの統治下では、パリを政治的にだけではなく視覚的にも近代化させることが進められ、オペラ座の建築やシテ島の貧民追放、大通りの整備などの都市開発が「古いパリ」を飲み込んでいきました。政治、都市の近代化を目の当たりにした市民は、その他の諸分野においても近代化が行われることを期待します。

 

この気運の中で、自らもブルジョワ家庭の子息であったマネは、最新の生活を、伝統にとらわれない技法で描くことで絵画の近代化に取り組みました。

 

当時フランス美術界において最大の影響力を持っていたのはサロン(官展)でした。

 

サロンのはじまりは、フランスの美術教育において最高機関であった王立アカデミーが、1737年ごろに所属画家の作品を発表するために開催した展覧会。王政が失われてからは美術行政に開催が引き継がれ、1880年に民営化します。マネが参加した頃のサロンは応募作品に対して審査委員が良し悪しをつけて入選作品を展示する、現代でもよく見られる公募展の形式で開催され、入選することで画家としての評価が高まり、国からの仕事も入るようになりました。

 

その審査基準は審査委員によって多少変化しますが、基本的には古代、ルネサンスより連綿と続く伝統技法を継承した作品、具体的にいうと、ルーヴル美術館の壁に所狭しとかけられているような、宗教や歴史、美しい農村を主題とした、色調の微妙なぼかしを用いた細密で写実的、そして陶器の肌のように艶やかで光沢のある仕上げで描かれた作品を良しとしました。

 

当時のサロンは排他的で新しい表現に対する評価は辛く、マネはサロンやそれに依って美の基準を育んだ市民からバッシングを受けます。

 

最も認められなかったのはマネの絵の仕上げ方でした。

 

《自画像》に戻ってみると、絵筆の跡がはっきりと見え、衣服の細かいシワは省略されています。

 

また、色と色の間に滑らかな階調はなく、足元に注目すると、影が色紙を切ったようなはっきりとした形で描かれています。

 

肉付けがなく平面的で、色彩片を組み合わせたような筆致はサロンの評価基準からは外れたものであり、ぼかしも艶もない前衛芸術家マネの作品は、おおざっぱで、仕上げが十分でない、途中段階の絵として酷評されました※4

 

そして同時に、「制作途中のような」彼の作品は、絵画とはキャンバスという布切れに乗った絵の具だということを見る者に思い出させ、サロンやアカデミーがキャンバス一面を均一に塗りつぶし、完璧な画面を作ることで守ってきた、絵画の中に無限に広がる神話と幻想の空間を真っ向から打ち砕いてしまったのです。

エドゥワール・マネとアートオークション

最後に近年のアートオークション市場におけるマネ評価に触れます。

 

国内のアートオークションにおけるマネの売買実績は、残念ながら版画作品を除いてほぼありません。

 

海外の履歴を参照すると、Sotheby’s New Yorkにおいて、2018年11月、本展の展示作《メリー・ローラン》(キャンバスにパステル、41.6×37.1cm・1882年)と類似した女性の肖像画、《Jeune femme decolletté》(キャンバスにパステル55.5×46.3cm・1882年作)がエスティメイト300,000~400,000ドルで出品され519,000ドル(約5,860万円) で落札、2019年5月には同様の若い女性の肖像画、《Jeune fille au col cassé de profil》(キャンバスにパステル48.2×39.0cm・1880年頃作)がエスティメイト700,000~1,000,000ドルで出品され860,000ドル(約9,370万円)で落札されています。

 

代表作《Le bar aux folies -bergèreフォリー・ベルジェールのバー》(1882年作)のための下絵である《Le bar aux folies -bergère ※タイトルは同一》(キャンバスに油彩、47.0×56.0cm・1881年作)が2015年6月のSotheby's Londonに出品された際は、エスティメイト15,000,000~20,000,000ポンドに対して、16,949,000ポンド(約32億8,800万円、当時194円/ポンド)の落札価格が付きました。

 

また、2014年10月にChristie's New Yorkに出品された、傘を差した夫人の油彩作品、《Le Printemps 春》(キャンバスに油彩、71.0×51.5cm・1881年作)はエスティメイト25,000,000~35,000,000ドルで出品され、破格の65,125,000ドル(約73億5,900万円)で落札されています。

 

やはり美術史的評価の高さと流通作品の少なさからマネのマーケットプライスは高水準をキープ。入手困難な作家と言えます。

 

国内においてはアーティゾン美術館の他に国立西洋美術館、ポーラ美術館、ひろしま美術館、大原美術館などがマネ作品を所蔵しており、常設展などの機会に触れることができます。

 

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    ■アーティゾン美術館は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、展覧会の開幕を延期し臨時休館していましたが、6月23日(火)より展覧会を開催。公式サイトでは、「ジャム・セッション石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」展や「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示帰国展Cosmo-Eggs|宇宙の卵」、「新収蔵作品特別展示:パウル・クレー」展などが発表されています。訪問の際は、最新の開館状況を公式サイトにてご確認ください。

    ※1:関根正二(1899~1919):屋根葺職人の息子として福島県に生まれる。1905年の大凶作を受けて一家で東京に移住。11歳の時、伊東一(のちの日本画家 伊東深水・当時12歳)と出会い、15歳の時に伊東の紹介で東京印刷株式会社の図案部に入社。16才頃に画壇デビューしたが、20歳と2か月で持病の結核をスペイン風邪により悪化させ逝去した早世の洋画家。
    関根が活動した1910年代、西洋近代思想の移入に伴い、日本でも、アカデミズムからの脱却や自我の元に物を作り、個性や主観を押し出すことが許容・評価されるようになっていた。また、第一次世界大戦による大戦景気により、芸術に対しても多くの資金が投じられた時代でもあった。
    《子供》(1919)は亡くなる数か月前に描かれたもので、発見されている油彩画では最後のもの。関根の制作期間は5年と短いため作品数が少なく、現存している油彩画は30点程度しかない。このため国内のオークションハウスでも関根作品の売買歴は少なく、オークションハウスを通した取引としては、プライベートセール(相対取引)で10数年に1作品が動くかどうかというスピードで流通している。市場価格は捉えにくいが、その希少性故に当然取引価格は総じて高額となる。
    ※2:引用:開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」展図録 P.114 L.2-3
    ※3:パリの北西10kmにある町。モネは1872年から78年までこの町で暮らし、170点以上を制作した。かつては自然豊かな農村で、1851年にパリとの間に鉄道が開通してからは行楽地として栄えた。その後産業化が進み、農村は工場敷地や郊外住宅地へと姿を変えていった。
    ※4:作品が作品として鑑賞者に認められるかの基準に、「芸術家が十分働いたかどうか、芸術家の労働を作品に認められるか」という見方があります。これは前時代の作品に比べて作家の手跡がどのくらい残されているか、という見比べに基づく感じ取りで、ミニマリストの彫刻(立方体を並べたもの、レンガを並べたもの)が当初評価されなかったのも、鑑賞者のこの感情が大きな原因でした。

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