約40年前の華国鋒主席の失権時と似た状況?
中国では5年に1度の党大会の間(届)に各年1〜2回、第○回党中央委員会全体会議(○中全会)が開催される。2017年10月の第19回党大会後、国家主席の任期制限を撤廃する憲法修正審議のため、18年初に1回多く全会が開催されたことから、通常、党大会翌年秋に開催される三中全会は、18年、四中全会として開催されるはずだった。しかし18年中は開催されず、日程は現時点でなお公表されていない。
19年1月、31省市区が相次いで各地域の両会(全人代と政治協商委)の日程を変更し、1月18〜24日の開催を避けるという極めて異例な事態が起こり、この間に四中全会が開催される可能性が高くなったとの見方も広まったが(各省市区の党書記や省長等幹部は全会に出席する必要があるため)、結局この間も開催されなかった。
約40年前の1978年12月、第11届三中全会(文革の清算と改革開放路線の確定、華国鋒主席が失権し最高権力が鄧小平に移行)が延期開催された時の状況と似ており、習主席が党内で共通認識を形成することに苦慮し、反対意見が一定の力を持ってきていることを示すものとの憶測が流れている。
中国内外から注目を集める「三中全会」
通常、党大会直後に開催される一中全会、翌年の全人代前の二中全会の中心議題は党や政府の人事で、三中全会が新政権の経済運営方針を議論する実質的な場として中国内外で注目されている。歴史的にも、1978年の三中全会で鄧小平が改革開放を掲げ、93年は前年の党大会で打ち出された「中国特色社会主義市場経済」が確認され、これが90年代後半の私企業発展の理論的基礎となった。近年では習政権1期目、「市場に決定的役割を果たさせる」との方針が示されたのも13年11月の三中全会だった。
三中全会をはさんで、政治的景気循環が見られてきたことはよく指摘されている(参考:『政治サイクルも景気に影響する中国経済』、2016年2月19日)。党大会や三中全会に向けて実績を示すため、政策的に成長率を押し上げた後、新政権の基盤が安定した三中全会で改革方針を発表・実行し、成長率が鈍化するというパターンで(改革と成長率は二律背反の関係になることが多い)、過去この相関が大きく崩れたのは、90年代後半のアジア金融危機時くらいだった。ただ近年、成長率は下がり続けたままだ。直近の米中貿易戦争という外部要因の他、高齢化、労働力賃金上昇、資本効率の低下など生産要素面の制約から潜在成長率が低下し、またそうした環境変化を踏まえ、過去のような高成長率は追及しない政策スタンスになっている(いわゆる新常態への移行)という内部要因がある。
ただ、自然体であればもっと減速しているはずの成長率が政策的になお6%台に維持されているとの見方も可能で、政治的景気循環が全くなくなったと判断するのは早計だ。中国社会科学院は2018年、16〜20年の潜在成長率6.4〜7.2%と現在の実績に沿った数値を出しているが、海外の見方はもっと厳しい。例えばOECDはすでに14年、中期的潜在成長率を5%程度と推計している。
[図表1]成長率と三中全会
様々な憶測を呼ぶ、18年「四中全会」の遅延
過去、三中全会の日程は直前の党政治局会議(原則毎月開催)でプレイアップされてきたが、今回、18年12月の同会議でも全会への言及はなかった。基本的には日程が窮屈という物理的事情があった。中でも、①11月初、上海で初の国際輸入博覧会開催。貿易戦争激化前から予定されていた一帯一路関係の会議だが、習氏が輸入市場開放、黒字削減意欲を示す格好の場になった、②11月6日米中間選挙の結果を見極めたかった、③11月末G20の場で米中首脳会談、④年末恒例の経済関係でもう一つの重要な党・国務院共催の中央経済工作(活動)会議が予定されていたことだ。
しかしそれに止まらず、憶測は以下、習政権の求心力低下、政策面での指導層の意見対立などに及んだ(博訊、万維読者他中国語サイト)。
①18年秋、朱鎔基前首相、呉邦国全人代前委員長、劉雲山政治局前常務委員ら長老が政権に圧力をかけるかのように、相次いで公の場に姿を現した。10月、香港・マカオ・珠海大橋開通式典を含む広東視察や中日首脳会談では、習氏のロープロファイルが目立った。開通式典では大橋の意義に触れず、また首脳会談では自らの考えを披瀝せず原稿を棒読みしただけだった(中国内ネット上では、かつて習氏が古典を読み間違えたことを引き合いに(注)、同様の失態をしないよう原稿に符っていた中国語のピンインと呼ばれる発音記号を読み上げたとの皮肉が聞かれた)。いずれも、8月の北戴河会議の前後からささやかれていた習政権の求心力低下が続いていることを示している。
(注)2016年、杭州でのG20開会演説で、習氏は中国の古典にある「軽関易道、通商寛农(ノン)(農)」、つまり関税軽減、交通インフラ整備を通じ貿易を活性化させ、農業管理を緩め農民の負担を軽減することを、「…通商寛衣(イ)」と読み間違えた。
②通常、三中全会の中心議題は経済改革だが、2018年は鄧小平改革開放40周年にもかかわらず、10月の広東視察中、習氏は改革開放の具体策や鄧小平の功績にはほとんど言及せず。12月の40周年祝賀大会での習演説は、過去40年の目覚ましい経済発展を改革開放の自由闊達な精神に帰するのではなく、あらゆる分野での党の指導によるものとし、「中国特色社会主義」路線の堅持をうたい、「変える(改)べきもの、変えることができるものは必ず変え、変えるべきでないもの、変えることができないものは決して変えない」と述べ、さらに19年国民向け新年挨拶の中の19年情勢判断でも「人民こそが共和国の強固な礎(根基)、政権を執る上で最大の拠りどころ(底気)」「自力更生、忍耐強く奮闘」と、毛沢東を彷彿させる言い回しを使用したことが注目された。鄧小平路線を弱め、党の指導を強める習氏に対し、党内では鄧小平路線の継続、党の指導を弱め民営企業を重視すること、さらに外交面では覇権志向ではなく、以前の目立たない「韬光養晦(タオグアンヤンフイ)」政策に戻るべきとの意見が対立している。
③18年後半から19年初にかけ、工業利潤や製造業購買担当者指数(PMI)を始め、経済の減速を示す指標が相次いで発表されている。10月政治局会議や12月経済工作会議では、それまで多用されていた「穏中求進(安定的な成長の中で改革を進める)」に変わり、「穏中有変(安定的な成長の中に変化が見られる)」「変中有憂(変化の中に憂慮すべきことがある)」「経済は下押し圧力に直面」「外部環境に深刻な変化」と、これまでにない厳しい認識が示された。他方、経済工作会議直前の政治局会議は「下押し圧力」に言及せず、「経済の安定化」に努めることを強調し、成長率鈍化をある程度甘受するかのような姿勢も示した。これらは当面のマクロ経済政策、特にデレバレッジ(高債務依存からの脱却)と景気刺激のバランスについて、党内で相当議論が紛糾していることを窺わせる。
④8〜12月、孟宏偉国際刑事機構総裁・中国公安部副部長と国家エネルギー局長の大臣級2名、北京市副市長ら江沢民派数名を含む計10名の高官が腐敗汚職摘発で相次いで失脚。10月下旬、2週間で3名の高官が自殺。また軍幹部120名が調査を受けていたが、12月初に3名が逮捕されるなど、軍内部でも反腐敗を巡って緊張が高まっており、党や軍のハイレベルで内部闘争が激化。習氏は主席就任後、党政治局主催の民主生活会(2017年1月、「民主生活会に関する若干の規定」を発表し、指導層が各自自己評価し、それを他者が批評することを通じ、党内民主・監督強化を図る場と明記)を反対派粛清(整風)の方法として好んで活用するようになったが、これを12月末も開催し何度も「闘争」精神を強調。様々なルート・方法で主流派の政策に不満をもらす(放風)側近ブレーンや党幹部に警告を発し、会は指導部が高度の緊張状態にあることを示す結果になった。四中全会開催もそうしたゲームの一環になっている。
⑤11月に習主席の腹心と目される人物が公安部幹部に抜擢され、にわかにネット規制が強まった。これは四中全会を開催する環境を整える「清網」、つまりネットを「きれい」にし、全会を皆が黙って従うだけの「死忠大会」にしようとする動きではないか。
⑥1年間に全会が3回も開催されるのは、毛沢東時代の1958年に例があるだけで極めて異例。当時、ソ連との関係が悪化する一方、「欧米に追いつき、追い越せ」目標を掲げて国際的な孤立が深まる状況下、「大躍進」政策が始まり、これがその後3年にわたり、餓死者が数千万人にも及んだとされる大飢饉をもたらした。こうした過去との対比で3回開催の異常さを指摘する声があり、習氏が18年内の開催を嫌った。
これらはいずれも憶測の域を出ないが、今後開催される四中全会がこれまでのように経済面だけでなく、習政権基盤の安定性を占う点でも注目される会議となっていることを物語っている。