国家統治の形態がまったく異なるサウジとイランだが…
中東の地域覇権を競っているサウジとイランとは、まったく異なった国家統治の形態をとっている。
サウジは、1744年の「ディルイーヤの盟約」により、厳格なイスラム教ワッハーブ派を保護することの見返りに、サウド家の世俗的支配の正統性を承認してもらったことを根拠としている。フランスの外交官にして優れた伝記作家であるジャック・ブノアメシャンの言葉を借りれば、「戦士は教義を求めており、説教者は剣を求めていた」(『砂漠の豹イブン・サウド』、筑摩書房、1962年8月)のだ。
現在の第三次サウジ王朝になって、第5代ファハド国王の時代から、国王は「二聖モスクの守護者」の称号を使うようになった。建国以来サウジでは、一切の政治的権利を放棄し、国王に絶対忠誠を誓い、疑義を呈さずに服従する国民の生活を「揺りかごから墓場」まで王家が面倒をみるという「家産制福祉国家」として成り立っている。
一方のイランは、さまざまな王朝による専制支配から、1979年のイラン・イスラム革命により脱却して成立した「イラン・イスラム共和国」である。国民の選挙により大統領も国会議員も選出される制度を持つが、究極はアヤトラの称号を持つ宗教界の最高指導者により、「シャリア」と呼ばれるイスラム法に基づいて統治されている「祭政一致の神権国家」である。
両国に共通しているのは、国家経済を石油収入が支えているということである。
供給よりも先に需要がピークを迎えるという「新ピーク・オイル論」が定説となり、長期的に石油価格が右肩上がりで上昇していくことが期待できなくなっている環境下で、両国がどのように対応していくのか、非常に興味深い。
最高指導者の下、国家として機能を果たしてきたイラン
イラン・イスラム革命が発生した1979年、筆者は「三井物産」本店に勤務しており、イラン原油の輸入業務に携わっていた。旧体制派だとして追及、弾劾されることを恐れてロンドンに亡命していた元「イラン国営石油(NIOC:NationalIranianOilCompany)」幹部を招いて、日本の石油会社幹部との懇親パーティーを開催したとき、元「NIOC」幹部が次のように発言していたことが今でも強く印象に残っている。
「我々イラン人は、長い間、シャーの下で暮らしてきた。そもそもイラン人というものは、上から重い石のようなもので押さえつけられていないと、自分勝手に振る舞い、国家としてまとまった行動はできない民族だ。シャーという重石がなくなった今、イランが国家としてまとまっていけるのかどうか、自分は非常に心配している」。
あれから39年、歴史を振り返れば、シャーに代わる「最高指導者」という新たな「重石」を得て、イランは国家として十分に機能してきているといえる。
堅固に見える支配体制も、将来的な変化は不可避
前述したように、両国はまったく異なった統治形態を取っている。一見、両国とも揺るぎない統治を継続しているように見える。だが、この両国の統治形態は「永遠か」と問われたら、残念ながら「永遠」に続く「支配」はないと答えざるを得ない。如何に堅固に見える支配体制であっても、いつかは間違いなく大きな変化に見舞われる。
このことは、例えば、100年前の第一次世界大戦の末期、両国がどのような状態だったかを考えてみれば、容易に理解できるだろう。当時の両国の為政者たちは、100年たった今日の国家のありようを、想像すらしていなかったに違いない。
重要なのは、では将来どのような変化が起きるかを予測し得るか、だ。そのためにも、両国の歴史を少々おさらいしておこう。