「一度に使わなくていい」妻が本当に欲しかったもの
恵美子さんが考えていたのは、高価なバッグや時計ではありませんでした。
「旅行に行って、ちょっといいホテルに泊まるとか。たまには高いお店でご飯を食べるとか。そういうのを何年もできるほうがいい」
雅人さんは「それなら300万円とは別に出せばいい」と答えました。しかし、妻は首を振ります。
「あなた、退職したら急に節約しそうだから」
雅人さんには心当たりがありました。給与が入らなくなることへの不安から、退職後の家計を何度も計算していたのです。
「年金生活になったら外食も減らさないとな」
「旅行も今までみたいには行けないな」
そんな言葉を、知らないうちに口にしていました。
恵美子さんが心配していたのは、退職金が足りなくなること以上に、夫が「もう収入がないから」とお金を使わなくなることでした。
総務省『家計調査報告〔家計収支編〕2025年平均結果』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯では、月の実収入が25万4,395円、可処分所得は22万1,544円です。一方、消費支出は26万3,979円で、可処分所得との差は月4万2,434円でした。
雅人さん夫婦も、退職後の生活費を試算しました。
公的年金の見込額、預貯金、退職給付を確認し、住宅ローンはすでに完済。今後は住宅設備の修繕や医療・介護など、まとまった支出に備える資金も残します。
そのうえで、当初妻へのプレゼントにする予定だった300万円を、夫婦で楽しむための「別枠」にすることにしました。
最初に使ったのは、わずか数万円でした。退職から2ヵ月後、夫婦で温泉地へ1泊旅行に出かけたのです。以前なら価格を見て選ばなかった少し上のグレードの部屋を予約しました。
夕食のとき、恵美子さんが言いました。
「こういうのでいいの」
「300万円あるのに?」
「300万円あるから、これを何回もできるんでしょう」
雅人さんはそこで、ようやく妻の言葉の意味が分かった気がしたといいます。
妻は「物はいらない」と言ったのではありません。一度の大きなプレゼントより、これから夫婦で過ごす時間のためにお金を使いたかったのです。
雅人さん自身にも変化がありました。
「退職金はなるべく減らさないほうがいいと思っていました。でも、全部残すことだけが目的になったら、何のために働いてきたのか分からないなと思うようになりました」
もちろん、まとまった退職金があるからといって、自由に使える金額が決まるわけではありません。今後の年金収入や毎月の生活費、住居費、医療・介護への備えなどによって状況は異なります。
一方で、老後資金は「いくら残すか」だけでなく、「何に、いつ使うか」を考えるお金でもあります。
大きな買い物をするのか、日々の楽しみに少しずつ使うのか。それぞれの希望を確認し、将来への備えとのバランスを考えることが、退職後のお金との付き合い方を決める一つの手がかりになるでしょう。
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