「戻りたいわけじゃない」便利さだけでは埋まらなかったもの
マンションでも、住民に会えば挨拶はします。ただ、エレベーターで一緒になっても、会話は「こんにちは」で終わることがほとんどでした。
俊夫さん自身にも変化がありました。
以前は週末になると近所の男性と洗車をしながら話したり、町内会の行事を手伝ったりしていました。当時は、それを特別な交流だとは考えていませんでした。
「むしろ町内会なんて面倒だと思うこともありました。でも、なくなったら本当に誰とも話さない日があるんですよ」
久美子さんも、以前の近所へ電車で出かけ、昔なじみの女性と昼食をとることが増えました。
俊夫さんはある日、妻に尋ねました。
「前の家に戻りたい?」
久美子さんは首を振りました。
「家に戻りたいわけじゃないの。あそこにいた人たちと離れたのが、思っていたより寂しかっただけ」
俊夫さんにも、その意味はよく分かりました。
内閣府『令和5年度 高齢者の住宅と生活環境に関する調査』では、現在の地域に安心して住み続けるために必要なものとして、「かかりつけ医等健康面での受け皿」が56.4%で最多でした。一方、「近所の人との支え合い」も50.2%に上り、「移動手段や商業施設などの生活環境の利便」の46.1%を上回っています。
夫婦はマンションを売って戻ることまでは考えませんでした。買い物や通院のしやすさは、これから年齢を重ねるうえで大きなメリットだと感じているからです。
代わりに、久美子さんは地域の公民館で開かれている講座へ通い始めました。俊夫さんも、マンションの管理組合の活動に顔を出すようになりました。
すぐに以前と同じような付き合いができたわけではありません。それでも、顔を覚えてもらい、立ち話をする相手は少しずつ増えています。
「住み替えそのものを後悔しているわけではないんです。ただ、駅まで何分とか、病院まで何分とか、そういうことばかり考えていました」
高齢期の住まいを選ぶ際、交通や買い物、医療の利便性は重要な条件です。一方、内閣府調査では「親しい友人や知人が近くに住んでいること」を住環境で重視する人も19.9%います。
長年住んだ地域からの転居では、住宅の広さや駅までの距離だけでなく、これまで築いてきた人とのつながりも生活環境の一部です。住み替えによって得るものだけでなく、何が失われ、それを新しい地域でどう補っていくのか。そこまで含めて考えることが、住み替え後の暮らしを具体的に想像する手がかりになるでしょう。
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