一本の電話と「支店長室」の重厚な扉
「だからあのとき、私は反対したじゃないの!」
リビングに響く妻の鋭い声に、70歳になった佐藤さん(仮名)は、小さく肩をすぼめて視線を落とすことしかできません。5年前、定年退職という人生の節目に下した「よかれと思って」の決断が、夫婦の穏やかな老後に影を落としています。
なにも使っていない、贅沢もしていない。それなのに、佐藤さんの手元からは1,000万円もの大金が消えてしまったのです。
始まりは、65歳で退職金を手にし、解放感に浸っていた矢先の銀行からの電話でした。
「佐藤様、長年のお勤め本当にお疲れ様でした。実は、退職金を受け取られた方だけにご案内できる、特別なプランがございまして……」
指定された日時に銀行へ向かうと、案内されたのは一般の窓口ではなく、重厚な扉の向こうにある「支店長室」。ふかふかのソファに腰掛け、上質なお茶を差し出されると、佐藤さんの心には「長年の苦労を認められた」という誇らしさが込み上げました。
目の前には柔和な笑みを浮かべる支店長と、誠実そうな若手担当者。広げられた資料には難解なカタカナ用語と右肩上がりのグラフが並んでいて、正直なところ、内容を半分も理解できていませんでした。
しかし、「これまでの信用があるからこその特別待遇だ」「一流銀行の支店長が直々に勧めるのだから間違いない」という心理的な高揚感が、佐藤さんの冷静な判断力を鈍らせました。
そして、銀行員に背中を押されるようにして、契約書に印鑑を押しました。魅力的に見えたのは、高金利を謳った「退職金キャンペーン定期預金」。
しかし、それは同額以上の投資信託とセットで申し込むことが条件でした。
「情」を逆手に取った、担当者の泣き落とし
半年後。キャンペーン定期が満期を迎えた日、若手担当者が泣きついてきたのです。
「佐藤様、実はいま、私の成績が本当に苦しくて……。この資金も投資信託に回していただけないでしょうか。佐藤様のためにもなるんです」
妻は「そんなうまい話はない」と猛反対しましたが、情に厚い佐藤さんは懇願を断り切れず、独断で追加投資を強行。その時点では運用はプラスで悪い話ではないと思いました。
ほどなくして世界的な景気後退が市場を直撃。さらに「相場が持ち直しても資産残高は元に戻らない現実」に佐藤さんは愕然としました。
見えていなかった「高い信託報酬(管理手数料)」が、保有しているだけで雪だるま式に投資信託の残高を削り取っていたのです。
2,500万円の退職金は、5年後には1,500万円にまで激減。佐藤さんは後悔の念に苛まれています。
「無理にお金を増やす必要なんてなかった。この1,000万円があれば、あと何回、夫婦で思い出の旅行に行けたことか……」
