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無視してしまった心と体のSOS
やがて、春香さんは眠れなくなっていきます。さらに、胃痛や吐き気、動悸を日常的に感じるようになります。通勤電車では胸がキリキリと締めつけられ、会社の最寄り駅が近づくほど不安が湧き上がってきます。駅のホームに立つと、足が重く、一歩踏み出すのに力が要る。「頑張らなきゃ」という思いだけが、自分を支えていました。職場の雰囲気はギラギラと圧迫感を増し、電車でも何かに襲われるような恐怖がありました。周囲の刺激がやけにきつく感じられるようになります。
その頃の春香さんは、心の中で小さな警報が鳴り続けていたのかもしれません。不眠・食欲低下・動悸・知覚過敏は、心の病の小さな警報(前駆症状)ですが、それが「助けを求めるサイン」だとは、まだ気づけなかったのです。それでも「ここで頑張らなければ、この会社に入社した意味がない」と自分を奮い立たせ、無理やり出勤を続けていたそうです。本当は、この「小さな警報」が鳴っている段階で、心と脳を休ませる技術を身に付けられていたら、春香さんの坂道は、ここまで急ではなかったかもしれません。
わたしは診察室で、うつ病や不安症の方に「休む技術」と呼んでいる小さな工夫をお伝えしています。たとえば、残業を続けるのではなく「夜はこの時間で仕事を切り上げる」と決めること、帰宅したらまず照明を少し落として、何も考えずに過ごす10分をつくること、休日に予定を詰め込みすぎず「何もしない時間」をあえて1コマ残しておくこと……。どれも特別なことではありませんが、心と脳の疲労を深くしないための生活のブレーキです。統合失調症の発症や悪化の背景にも、こうした長期の疲弊が横たわっていることが少なくありません。
少し元気がないことが気になったお母さんが、「春香、会社で何かあったの?」と聞いても、「ちょっと忙しいけど、大丈夫」。
母親:それ以上、社会人になった娘を問い詰めることなどできませんでした。本当に、今にして思えばなぜ、もっと早く真剣に向き合わなかったのか、悔やまれてなりません。春香は眠ることすら、まともにできなくなりました。夜中に寝室から出てきて、どこかから「失敗するな」「逃げ場はない」などといった声が聞こえてくると、わたしに訴えるようになったのです。そして、スマホの着信音が鳴るたびに「監視されている」と、窓の外に人影を探すようになり、とても出社できる状況ではなくなってきたのです。
広岡:春香さんの症状は、統合失調症特有の被害妄想であり、幻聴です。できるだけ早く受診されたほうがいいでしょう。