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発症から25年、次の世代へと渡された母娘のバトン
発症から25年以上が経過しました。春香さんは服薬を続けつつ、平穏で安定した生活を送っています。幻覚・妄想は完全に消失。温かな家庭を築き、教育費のためにパート勤務を続け、夫婦で支え合いながら子どもの成長を楽しんでいます。
お嬢さんは明るく思いやりのある性格で、高校生の頃から看護師を志し、念願の看護大学に入学しました。入学式の日、春香さんは少し緊張した面持ちで娘の背中に手を添えていました。白い壁に花束の香りが漂う式場で、娘の手が小さく震えるのを見たとき、かつて、お母さんに支えられた日を思い出したといいます。「あなたなら大丈夫」今度は春香さんが、かつてのお母さんの言葉をそのまま娘へと伝えました。その話を聞いたとき、わたしは、母から娘へ、そして娘から次の世代へと、静かな絆のバトンが渡されたように感じられました。
現在も、ご主人、お嬢さん、お母さんが、ときに不安定になる春香さんを支えています。それでも、外来で春香さんは穏やかに語ります。
春香:先生、あのときは本当に真っ暗でした。でも、あの闇の中で生きてこられたから、今の自分がある気がします。
25年前に「本当のお母さんではない」と恐れた春香さんは、いまや家族をつなぐ中心的存在です。世代は巡り、支え合いの輪は静かに続いています。
統合失調症の人たちが聞く幻の声は、たいてい厳しく、冷たく、時に残酷です。「おまえはダメだ」「消えてしまえ」……。その声は、社会の中で生きる誰もが一度は浴びたことがある否定や嘲笑が凝縮された残響なのかもしれません。しかし、わたしたちの心には、どれだけ深く傷ついても、その声を打ち消そうとするもう一つの声を聞く力が残っています。
「それでも生きていいんだよ」「一緒にいるよ」……。春香さんの場合なら、お母さんやお父さんのまなざしや、デイケアでの笑い声の中から聞こえてくるものです。それが、外の世界にあるやさしさです。
統合失調症とは、絶望の病ではありません。それは、人間の心が不条理な世界の中でもなお、他者を求めようとする証でもあります。闇の中で聞こえてくるやさしい声は、「あなたはここにいていい」と告げています。わたしたちは、その声を見失わない限り、何度でも、現実の光の中に立ち戻ることができます。