2015年に社会を震撼させた電通社員の過労自殺事件。この悲劇をきっかけに、日本でも「働き方改革」の機運は一気に高まりました。しかし、制度が整い、残業時間が可視化されるようになった現代においても、目に見えないパワハラの毒素は、いまなお職場の奥底に澱み続けています。念願の大手企業に入社した25歳の野村春香さん(仮名)も、そんな現代の「歪な働き方」の犠牲者の一人でした。「真面目に、完璧に」と自律しようとする彼女の純粋な善意が踏みにじられ、脳が限界を迎えたとき、悲劇は起きたのです。本記事では、精神科医・広岡清伸氏の著書『ごめんなさい、もうこれ以上頑張れません 生きづらい社会で傷ついた人が、再び「自分」を取り戻すまで 』(アスコム)より一部を抜粋・再編集し、私たちが守るべき「働く者の尊厳」と「休息」の価値を改めて問い直します。
「お母さんには言わないで」大手食品メーカー勤務・20代女性、パワハラ上司に追い詰められ、統合失調症に。精神科医に吐露した衝撃告白…一度は回復するも、幸せを掴んだ彼女を再び襲った〈産後の苦しみ〉 (※画像はイメージです/PIXTA)

「お母さんは悪い人に入れ替わりました」

翌日、春香さんは、お母さんと一緒に来院しました。わたしを直視することができず、うつむいたままです。怯えているのがわかります。

 

わたしは春香さんの症状を確認するために、挨拶程度の話をした後、お母さんには待合室で待ってもらうことにしました。

 

広岡:ここは安全です。なんでも話して大丈夫ですからね。春香さんが困っていることを話してもらえますか?

 

しばらく沈黙が続いたのち、春香さんは衝撃的なことを話し始めました。

 

春香:……先生、お母さんは本当のお母さんではないんです。お風呂に入っているとき、悪い人に入れ替わりました。わたしを殺そうとしています。だから寝ません。日本の外に出たい。……お母さんには言わないでください。

 

これは、専門用語を使うと、「替え玉妄想(カプグラ症候群)」です。親しい人の外見は同じなのに、「中身が別人だ」と確信してしまうことをいいます。

 

春香:……、いつも誰かがどこかで見ている気がします。そして、誰かが『眠るな』『外へ出ろ』と命令してくるんです。先生、わたしつらいんです……助けてください。

 

わたしは、春香さんの切実な訴えを聞いたとき、幻覚妄想や幻聴は通院治療によって消失できると確信しました。なぜなら、本人に苦しい状況から脱したいという強い思いがあったからです。

 

心の病を患っている人たちは、ネガティブ成分に心が支配されています。しかし、心の中にポジティブであろうとする要素がまったく残っていないわけではありません。困っていること、苦しんでいることから抜け出したいという思いは、そのひとつ。わたしは、そのポジティブ成分に気づかせてあげること、そして語りかけることがすごく大切なことだと考えています。

 

そして、事前にお母さんから相談があったように、家族にも一緒に乗り越えようとする意志があります。お母さんが支えてくれる環境があれば、春香さんが自分で自分を傷つけることも、他人を傷つけることもないでしょうし、薬もしっかり飲み続けられるでしょう。

 

広岡:春香さんは、統合失調症という病気の急性期にあたると思われます。ストレスだらけのいまの社会を生きる人にとって、心の病は特別な病気ではありません。統合失調症もそのひとつで、誰でも発症する可能性があります。会社の中で嫌なことが積み重なれば、誰だって心が疲れてきます。春香さんは、疲れているのに頑張りすぎたんです。それで心が大きく傷つき、脳の働きが乱れてしまったんです。妄想や幻聴が現れるようになったのは、それが原因だと考えられます。

 

治療は、乱れている脳の働きを薬で整えることから始めました。