(※画像はイメージです/PIXTA)
服薬後の変化
薬を飲み始めてから幻聴は落ち着いてきましたが、母親への恐怖心はすぐには消えませんでした。
春香:昨夜から声は聞こえなくなりました。ただ……。(少し暗い表情で)声は聞こえなくなりましたが、いまも誰かから覗かれていると感じるときがあります。一人で寝ていると、誰かに殺される気がして……。
広岡:まだ、脳が回復しきれていないのでしょう。もうしばらくすると、その幻覚もなくなります。お母さんのことはどうですか?
春香:……、まだ怖いときもあります。
それから数週間後、薬の効果で徐々に脳の状態が整ってきた春香さんから、うれしい報告がありました。
春香:お母さんと一緒にごはんを食べました。
そこに至るまでは決して簡単ではなかったようです。お母さんによると、春香さんはしばらく「お母さん」を直視することはありませんでした。廊下で鉢合わせると、体をこわばらせ、壁に寄って距離を取ることもあったといいます。
そのたびにお母さんは、「ごめんね、びっくりさせたね」と小さく声をかけ、すぐにその場を離れました。あくまで、追いかけない。問い詰めない。それだけを心がけたと話してくれました。
母娘の関係が結び直されるとき
春香さんは玄関の棚に置かれていた自分宛てのメモを見つけました。
「お味噌汁、ここに置いておくね。食べられそうなときでいいから」短い文章を見た瞬間、「これは母が書く字だ」と感じたといいます。しかし同時に、「でも、字なんて真似できる」と疑う気持ちも残りました。
翌朝、お母さんが食器を下げに行くと、空になった茶碗が静かに置かれていました。「食べられたんだね、よかった……」お母さんは声に出さず、ただ胸の前で手をぎゅっと握りしめたそうです。
ある日の深夜、珍しく春香さんが自分から声をかけてきました。「どうしたの?」「ううん……。なんでもない。ちょっと、声を聞きにきただけ」お母さんはそれ以上踏み込まず、「そっか。おやすみ」とだけ返しました。その短いやり取りが、春香さんの中では“確かめても攻撃されない”という確かな体験になったようです。こうして、春香さんの中で、「母への恐怖」がゆっくりとほどけていきました。
それまで自分の部屋で食べていた春香さんは、その日の夕食のとき、部屋から出てきて椅子に座り、恐る恐るお母さんのほうを見ました。視線が合った瞬間、ほんの少しだけ口角を上げ、すぐに視線を落とします。
お母さんは何も言わず、ご飯をよそった茶碗と温かい味噌汁を春香さんに差し出しました。会話は多くなかったそうですが、2人が分かち合ってきた“いつもの夕方”が、そこにあったといいます。眠れない娘のそばに座り、手を握りながら服薬を見守り、日々寄り添い続けたことで、お母さんへの恐怖が少しずつ薄れていったのでしょう。その日の夕食は、母娘の関係が再び結び直された瞬間だったと思います。
診察の最後に春香さんが言った言葉は、いまでも耳に残っています。
「お母さんは、本当はお母さんだったのかもしれません」