2015年に社会を震撼させた電通社員の過労自殺事件。この悲劇をきっかけに、日本でも「働き方改革」の機運は一気に高まりました。しかし、制度が整い、残業時間が可視化されるようになった現代においても、目に見えないパワハラの毒素は、いまなお職場の奥底に澱み続けています。念願の大手企業に入社した25歳の野村春香さん(仮名)も、そんな現代の「歪な働き方」の犠牲者の一人でした。「真面目に、完璧に」と自律しようとする彼女の純粋な善意が踏みにじられ、脳が限界を迎えたとき、悲劇は起きたのです。本記事では、精神科医・広岡清伸氏の著書『ごめんなさい、もうこれ以上頑張れません 生きづらい社会で傷ついた人が、再び「自分」を取り戻すまで 』(アスコム)より一部を抜粋・再編集し、私たちが守るべき「働く者の尊厳」と「休息」の価値を改めて問い直します。
「お母さんには言わないで」大手食品メーカー勤務・20代女性、パワハラ上司に追い詰められ、統合失調症に。精神科医に吐露した衝撃告白…一度は回復するも、幸せを掴んだ彼女を再び襲った〈産後の苦しみ〉 (※画像はイメージです/PIXTA)

家族以外の人との関わり

わたしはお母さんと春香さんに次のステップとしてデイケアプログラムを提案しました。

 

春香さんがデイケアの料理のプログラムに参加したのは、初診から50日後のことでした。わたしは、春香さんの様子を見学に行きました。

 

春香さんは、隣にいる参加者からのアドバイスに笑いながら、玉ねぎのみじん切りに挑戦していました。春香さんは、料理は少しできますが、玉ねぎのみじん切りは苦手だったようです。それでも、会社にいた頃と違って、たとえ下手でも、誰からも否定されない環境にいます。

 

その日、春香さんは、迎えに来てくれたお母さんの車に乗り、窓の外を流れる夕焼けを見ていました。そのときの車の中での会話を後から教えてくれました。

 

「玉ねぎのみじん切り、涙が出たけど……、楽しかった」「そう」余計な会話を重ねないことが、いまの2人のルールになっています。

 

デイケアに参加するようになってから2カ月後のことです。お母さんと一緒に来院した春香さんは、診察室に入るなり、わたしに笑顔で話しかけてきました。

 

春香:半年前の自分が、別の人みたいに思えてきました。

 

広岡:いまの春香さんが、本来の春香さんですよ。ただ、妄想や幻聴はなくなっても、まだ心は回復段階ですから、薬は飲み続けてくださいね。わたしが大丈夫だと判断できてから、少しずつ減らしていきましょう。

 

春香:実は、たまにですが、誰かに見張られているような気がするときがあります。そういうときは、先生から教えられたように『現実じゃないよ』と、自分に言い聞かせるようにしています。そうすると、心が落ち着いてくるようになりました。

 

「半年前と別人」という言葉に、お母さんは頷きながら、ハンカチで目頭を押さえていました。半年前には、病気だったとはいえ、娘から「お母さんに殺されるかもしれない」と言われたのですから無理もありません。

 

お母さんは、わたしのアドバイスに従って「励ますより寄り添う」ことを心がけてくれました。春香さんは、お母さんの愛を信じられるようになりました。少しずつ笑顔が増え、安心感を取り戻し、同じ悩みをもつ人々との共感的なやり取りも増えていきました。日常で笑う、誰かのために動く、感謝される。その積み重ねが、春香さんの確かな変化につながったのです。