(※写真はイメージです/PIXTA)
ソシオパスが抱えるのは「知能の問題」ではなく「倫理観の問題」
10歳の天才児の知能指数が平凡な35歳のそれより高ければ、たとえ35歳には抽象的思考ができて天才児にはできないとしても、天才児のほうが「知能が高い」と思われがちだ。だがこの10歳の天才児と平凡な35歳をさらに比べていくと、10歳児はとても頭がいいが、きわめて幼いこともわかるだろう。ちょうど、前述のソシオパスと診断される人がそうであるのと同じように。
銀行強盗のウィリー・サットンと新聞記者が交わした有名なやりとりで私が最も面白いと思うのは、サットン以外の人は皆、その答えを滑稽だと思っているが、当のサットンは大まじめである点だ。
「ウィリー、なぜ銀行に押し入ったりするんです?」
「なぜって、銀行には金が保管されているからです」
一方、ソシオパスのティーンエイジャーは、私たちにとって、10歳児には見えない。身体にしろ生活の仕方にしろ、10歳児のそれではないのだ。私たちは彼らを、ティーンエイジャーだと思う(そう思うべきであるかのように)。ティーンエイジャーに対する私たちの期待に、彼らに応えてもらいたいと思う(そう思うべきであるかのように)。そして、彼らの精神的能力はそういう期待を理解できる段階にすでに達していると、当然のように思っている(そう思うべきではないのに)。
私たちは知らず知らず、ソシオパスのティーンエイジャーは、「持続的カテゴリを超えた」次元の意識を持っているものと信じ込んでいるのである。その結果、私たちは次のように感じ、そして批判するようになる。彼らの倫理観は、信頼できる人間として私たちが期待するレベルに達していない、いやそれどころか、そもそも彼らには道徳観念がない。彼らは大人を利用している、いやそれどころか故意に善意につけ込んでいる。彼らの内なる精神生活は、私たちが期待する複雑さを欠いている、いやそれどころか空っぽだ、と。
実際には、ソシオパスは倫理観に欠けるわけではなく、私たちが求める倫理観を持っていないだけである。
ある女子刑務所に、ロクサーヌという女性が収容されていた(※3)。売春に万引き、すり、さらに、他人の生活保護小切手を盗んだり、ほかの人のクレジットカードを使ったりしたのだ。自分のニーズを満たす必要があるときは別だが、盗むのは悪いことだという認識はあった(「私がすることのなかで盗みは最悪のこと」)。面白半分に万引きする人は絶対に間違っているとも思っていたし、「誰彼かまわず寝るのは売女だ」とも思っていた(「代金をもらわないなら、間違ってる」)。
ところが、もし誰かがやはり必要性があってロクサーヌの小切手を盗んだらそれは正当なのかと尋ねられると、ロクサーヌはこう答えた。「いいえ、正当じゃない」と。R・ブレイクニーとC・ブレイクニーが述べているように、ロクサーヌの倫理観は、「私が他人の小切手を盗むのは正しい、なぜなら私にはその小切手が必要だから。そして他人が私の小切手を盗むのは間違っている、なぜなら私にはその小切手が必要だから」ということらしい。互恵関係はないとしても、考え方として一応、整合性はある。