もう取り返しがつかない
「もう少し、先まで見てみましょうか」
小鉄の声と共に、ビデオの倍速のように風景が加速する。
「ちょっと待って、早送りまでできるの?」
「できますけど?」
当たり前のように言う小鉄に、もはや突っ込む気すらおきない。数十倍速で賢一さんの様子を観察していると、段々と、賢一さんの独り言の様子も変わってきた。
(いつでもFIREできるという状態での仕事は気が楽だし、資産が減る心配もない。案外悪くないかもしれないな)
(いやいや、でもFIREは夢だ。実現したい)
(あと1,000万円増えたら、FIREをしようかな)
(あと3年働くと、退職金が一段階増えるな)
(結婚することになった。家族のことを考えると、もう少しお金がいるな)
(インデックス1本ではなく、もっと分散投資をしてポートフォリオの安全性を高めよう)
(ここまで来たら、大台の1億円までいってから決断をしよう。そうすれば、盤石だ)
(もう少しだけ働けば、より安心できるかもしれない)
「いいからとっとと辞めろや!」とはどうしても思えない自分がいた。おそらく、会社でよっぽど嫌なことでもおきない限り、自分も退職の決断をできないだろう。
小鉄が早送りを止めたとき、この世界ではもう15年の時が流れていた。
社内の制度が変わることをきっかけに、ついに賢一さんは退職を決意した。若い頃に辞めるのと比べて、随分と増えた退職金も加わり、資産は当時の倍以上になっていた。ポートフォリオにも債券や高配当株、REITのような多種多様な銘柄が組み込まれており、配当収益だけでも生活が成り立つようになっている。さすがに安心な水準だ。
賢一さんの退職後の生活は穏やかだ。嫌な上司もいないし、会社に行かなくてもいい。今までの人生を取り戻すように、賢一さんは日々を満喫していた。かつての同僚や、周りの人々にも羨ましがられている。結婚し、子供も1人いたけれど、彼の資産額なら全く問題のない水準だ。
でも、心の声が聞こえる自分たちには、寝る前の賢一さんが定期的に自責の念に苛まれているのがわかってしまっていた。
これってFIREなのか? 世間の定義ではそうかもしれないけれど、自分はもっと若いうちに人生を謳歌したかった。確かにお金に余裕のある老後は送れるけど、35歳から15年も我慢して、50歳から楽しむ人生でいいのか? 体にもガタが来ている。若い頃のように無茶はできない。
同年代の皆は、FIREをしないにしても、趣味を極めたり、新しい事業に挑戦をしている。しかし、自分はただ会社に身を捧げ、資産を築くことにばかり時間を使ってきた。本当はもっと、多くの経験や、挑戦ができるはずだった。
確かに、この歳からでもできることはたくさんある。それは事実だ。でも、若いうちにしておくべきことだってたくさんあったはずだ、もう取り返しがつかない……。こんな人生になるはずじゃなかったのに……。
早く決断することができるか?
「ブハァ!」自室の床から跳ね起きた。ゆ、夢!? 心臓はまだバクバクと音を立てていて、息が荒れていた。薄暗い部屋の中、僕は一瞬、現実と夢の境界が曖昧になり、周りを見回した。壁時計の秒針の音がやけに大きく聞こえ、冷たい汗が額から流れていた(少し、たんこぶもできていた)。
「疑似体験してみてどうでした?」
そうか、疑似体験。夢ではなく、小鉄の過去の飼い主の半生を見せてもらったのだった。あまりにもリアルで、まさに自分がそれを体験しているかのような気持ちになった。
「なんていうか、ちょっとだけ、言ってる意味がわかったかも。これが〝投資だけでFIREをすることはできない〟ってことなんだね?」
「その通りです。資産を築いていくことはFIREにおいては必須の要素。これは間違いありません。しかし、それだけではFIREに踏み切るのは難しいのです」
「FIREできるくらい優秀な人だからこそ、いいところで働いていて、それが足かせになっているのも、なんていうか、皮肉だったなぁ」
「そうですね。それで、賢一さんは、どうすべきだったでしょうか?」
「それはやっぱり、もっと早く決断すればいいのにってことかな」
「決断、できますかね?」
「うっ……」
「ニンゲンは愚かなので、損失を過大評価します。同じ100万円でも、100万円をもらった喜びよりも、100万円の損失の悲しみの方が大きく感じます。この損失の悲しみは利益の喜びの2倍以上と言われてるんです」
以前、手を出してみた株の価格が下がって、塩漬けになっていることを思い出した。損切りが大事と言われていたのに、傷つきたくない意識が働いて、含み損を確定損にできなかったのだ。逆に、利確はすぐにしてしまっていた。今小鉄が話した内容と、全く同じ話だった。
「もちろん、FIRE生活のために資産を切り崩すことは損失なんかじゃありません。元からそのつもりなのですから。しかし、賢一さんにとって資産は全てです。それが減る。しかも、これからずっと減り続けていくという恐怖は想像に難くありません」
そうなのだ。今までの僕だったら「そんだけ金があったらつべこべ言わずFIREだろ!」と思っていたけれど、擬似体験した今、すぐに退職という決断が取れるとは思えない。
「しかも、多くのニンゲンにとって、大切なのは資産の絶対額よりも、それが〝増えている〟か〝減っているか〟だったりします。どんなにお金があったところで、それが〝減っている〟というだけで不安は強まるのです。〇千万円の資産ができたら辞めてやる! という方は山程いますが、実際にその資産に到達しても、辞める方は本当に一握りなのです」
株式会社HF 代表取締役
ヒトデ
※本記事は『1万回生きたネコが教えてくれた 幸せなFIRE』(徳間書店)の一部を抜粋し、THE GOLD ONLINE編集部が本文を一部改変しております。
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