東京には、江戸時代に由来する地名が数多く残されています。今回は江戸時代、海や川に近いことで栄えた4つの街についてみていきます。
佃島、木場、築地、永代…江戸文化息つぐ「東京の街」を巡る【江戸歴史散歩⑤】 (※写真はイメージです/PIXTA)

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佃島【中央区】…佃煮、発祥の地

佃島のタワマン
佃島のタワマン

 

東京都中央区に位置する「佃」は、隅田川河口の2つの中州、佃島と石川島から発展した街です。名前から分かるように、江戸の庶民の味として知られる佃煮は、この佃島で生まれました。ここの漁師が弁当の肴が腐らないよう醤油で辛く煮付けていたことに目を付けた、茅場町(中央区)薬師寺堂前の料理茶屋主人が、改良して売り出したのが始まりと言われます。

 

この佃島の成り立ちは徳川家康と関係が深く、もともとの住民は、大阪摂州佃村(大阪市西淀川区)からの移民です。家康が摂州多田の廟に参詣したときに、船を渡して助けたり、本能寺の変の際に、堺にいた家康を急遽本拠地の岡崎城へ帰国させるため、船を出して助けたりする話が伝わっています。こうした縁により、二代将軍徳川秀忠の時代になると、佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる隣の大和田村(西淀川区)33人の漁師が江戸に呼び寄せられ、島に入植しました。

 

彼らは関西の先進的な漁業技術を関東に広めるとともに、江戸城へ将軍用の白魚や魚を献上する役目を命じられました。他にも、海から江戸城を警備するという任務もあったと言われています。これらの恩賞としてか、佃島の漁民たちには、江戸近辺の海や川ならどこでも漁をしてもかまわないという「御墨付(おすみつき)」が与えられ、自由に漁業を営んでいたと伝わります【明和3年(1766)に書かれた「佃島由緒書」より】。ただ、移住した年が異なる説も存在するなど、成り立ちに不確かな部分もありますが、佃島が幕府の厚い庇護のもとに関東地域で最も強い権限を持つ漁師町として発展していったことは確かなようです。

 

また、隅田川の風物詩としても有名な白魚漁も佃島に深く関係があります。徳川家康は白魚を好み、わざわざ尾張名古屋の海から江戸に運ばせていたと言われていますが、佃島の漁師は、冬から春のシーズンにかけ、毎朝将軍の食膳に出すための白魚を江戸城に届けていました。そして、残った白魚は市場で売られ、江戸の人々も口にすることができました。しかし、この白魚漁は、隣の月島の埋め立てや周囲の工業化に伴い、急速に衰退していきました。

 

江戸時代からの漁師町の情緒が残る佃島でしたが、東京オリンピックが開催された1960年代を境に町は急速に変化していきました。江戸時代から続く「佃の渡し」が廃止され、佃大橋が開通。住所も住居表示変更により佃一丁目となって島ではなくなりました。実はこの時、町名に「佃」の文字がなくなりそうになりましたが(候補に「津久田」、「住江」など)、住民や文人・歴史家などの行政への働きかけにより、新町名が「佃」になったという経緯があります。

 

大阪と繋がりのある佃島には住吉神社があり、例祭である住吉祭(通称「佃祭」)が8月に行われます。本祭は三年に一度行われます。

 

【佃島周辺のおすすめスポット】

◆住吉神社

船の守り神として船乗りたちが安全な航海を祈願。縁結びの神様としても有名。8月頃に例大祭があり、3年に1度大祭(本祭)が行われる

◆佃堀

佃川の埋め立てによりできた堀。下町の街並みと超高層マンション群が混在する景色が望める。佃堀のある佃川支川にはハゼ等が多く生息し釣り人が集まる

◆佃天台地蔵尊

入口のイチョウが印象的な細い路地裏にたたずむお地蔵様。平らな天然石に刻まれたお地蔵様で古くから人々に信仰されてきました。住宅地にあり、民家の間に立つ赤い旗が目印

◆佃源 田中屋

佃煮誕生の佃にある、、江戸時代創業の老舗の佃煮屋のひとつ。東京のお土産にも最適な商品が並びます

 

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