東京には、江戸時代に由来する地名が数多く残されています。今回は江戸時代、海や川に近いことで栄えた4つの街についてみていきます。
佃島、木場、築地、永代…江戸文化息つぐ「東京の街」を巡る【江戸歴史散歩⑤】 (※写真はイメージです/PIXTA)

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築地【中央区】…「埋め立てられた土地」が由来

築地市場の解体
築地市場の解体

 

築地は東京都中央区にある地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内に位置します。平成30年(2018)10月6日に営業を終了しましたが、東京都中央卸売市場の一つ「築地市場」(代替市場として豊洲市場が開場)があることで有名でした。新鮮な海産物や食材が豊富に取り揃えられた商店街の築地場外市場は、築地市場の豊洲市場移転後も営業を継続しており、はとバスのコースにもなるほど人気があります。

 

また、歴史的な建造物や寺院、神社なども点在しており、特に、築地本願寺や勝海舟記念館などは歴史的な価値が高く、多くの人々が訪れる人気の観光スポットです。

 

魚河岸のイメージが強い築地ですが、築地市場ができる前は、この地は江戸時代に海を埋め立てて出来た土地で、大名屋敷や庶民の住宅地として栄えていました。大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに日本橋の魚市場が移転し、正式開場は昭和10年(1935)と、市場の歴史は大正に入ってからです。

 

築地の地名は、築き上げられた土地、埋められた土地というところを語源とし、対岸の月島(中央区)も同様な理由を由来としています。

 

現在の築地本願寺(浄土真宗本願寺派別院)は、京都西本願寺の別院として、当初浅草の海辺近くにありましたが、明暦3年(1657)の大火によって消失したため、代替地として八丁堀の海上が幕府から与えられました。本願寺再建に熱心な本願寺門徒の佃島の漁師を中心とする信者たちが協力して土砂を運び、海を埋め立ててこの土地が造成されました。築地本願寺には、この時活躍した佃島漁師の頭領であった森孫右衛門の墓が現在も残ります。

 

その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立されましたが、他にも、江戸時代を通じて諸大名の上屋敷や中屋敷が立ち並んでいました。播磨赤穂藩浅野家の上屋敷も現在の聖路加病院敷地内にありました。

 

また、聖路加病院敷地内にあった豊前中津藩奥平家は、江戸中期から後期にかけて好学の藩主を出しており、いち早く死体解剖を実施したり、江戸時代の日蘭対訳辞書として最も充実していた中津版オランダ辞書『蘭語訳撰』を出したりしています。築地鉄砲洲の中津藩邸には、西洋の学問に触発された人々が集まり、藩医の前野良沢は杉田玄白らとともに『解体新書』を完成させ、下級藩士出身の福沢諭吉は、慶應義塾の前身となる蘭学塾を開きました。

 

安政5年(1858)、日米修好通商条約で江戸の開市が決まり、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれました。江戸市内に外国人居留地を設けることが約束され、それが明治政府に引き継がれて、明治元年(1868)、築地明石町一帯、現在の聖路加病院一帯に築地居留地が開かれました。居留地内には多くの公使館や領事館が設けられ、ミッション系の学校が次々に開校。現在は移転していますが、明治学院・青山学院・女子学院・女子聖学院・立教大学・暁星学院・関東学院・雙葉学園などのキリスト教学校が居留地内に造られました。

 

【築地周辺のおすすめスポット】

◆歌舞伎座

銀座にある歌舞伎専用の劇場。シンボルとなる巨大な提灯が設置される地下の「木挽町広場」では、土産や弁当が購入できる

◆新橋演舞場

松竹の主要劇場として歌舞伎・新派・松竹新喜劇・新国劇・前進座公演・歌手による芝居公演などを上演

◆築地場外市場

築地市場に隣接した商店街。築地市場移転後も営業は継続。海産物を中心に小売店、飲食店などがあり、はとバスツアーのコースにもなっている

◆銀座三越

老舗百貨店「三越」の銀座店。銀座地区では松屋銀座を抑えて売り上げトップを誇る。なお、三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる

◆GINZA SIX(ギンザシックス)

世界の高級ブランドの旗艦店や注目のグルメが集まる銀座エリア最大級の複合商業施設

◆築地本願寺

浄土真宗本願寺派の寺院。京都市の西本願寺の直轄寺院。本尊は聖徳太子手彫りと伝承される阿弥陀如来立像

◆勝鬨橋

築地と勝どきの間の隅田川下流にかかる橋。中央が開閉する可動橋であったが、今は大型船舶の減少で開閉は行われていない

 

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