元通産省官僚・株式会社二十一世紀新社会システム研究所代表である、本田幸雄氏の著書『劇症型地球温暖化の危機 太陽光エネルギー革命で日本を再生する』より一部を抜粋・再編集し、明治以降の「日本企業の発展」について見ていきます。
日本企業は「親会社がいないと発展しづらい」が…極めて珍しい「自力で発展した」ものづくり企業 (※写真はイメージです/PIXTA)

富士通を中心にみる「日本の企業作りの一般的な姿」

たとえば、古河市兵衛は渋沢栄一などの援助により足尾銅山を起こし、鉱山王となりましたが、これは1911年(明治44年)に古河鉱業合名となり、間もなく起こった第一次世界大戦のブームに乗って大きく成長し、旭電気、横浜護謨、古河電気工業などを設立しました。

 

そのうち、国内需要が急増していた発電機・発動機・変圧器・電話・通信器具などをドイツのジーメンス社の技術で生産するため、古河電気工業とジーメンス社が合弁して(古河の「フ」、ジーメンスの「ジ」をとって)富士電機製造を1923年に設立しました。

 

さらに、1935年、富士電機製造から電話部門が切り離され、富士通信機製造が生まれました。通信機はやはりジーメンスの技術によるものでした。

 

その後、同社は富士通と名を変え、1950代後半からコンピュータ部門に進出し、わが国最大のコンピュータメーカーとなりました。この富士通からも、1972年に数値制御装置や産業用ロボットを製造するファナックが独立しました。

 

このように古河鉱業─古河電工─富士電機─富士通─ファナックなど、次々と成長性の高い分野に子会社が作られ、それが発展して来たというのが日本の企業作りの一般的な姿でした。

 

このような財閥系というか企業集団に属している企業は利益率で見ても成長率で見ても独立系企業より低かったのですが、不況時などにはグループからの支援が受けられたので安定性が著しく高かったのです(ですから、日本企業は欧米企業より安定性はありますが、利益率は低いというのが相場となってしまいました。これも今でも続いています)。

 

明治・大正期に確立された財閥集団は戦後一時は解体されたとはいえ、その後復活、拡大し、(戦前・戦中・戦後のブランク時代に拡大した欧米との技術格差を取り戻すため)再びあらゆる面で欧米企業からの技術導入を行い、新しい企業を次々に作ってきました。それを三菱、三井、住友、……など財閥系、企業集団ごとに行ったので、ワンセット主義と言われました。

 

この過当競争気味のワンセット主義が続きましたので、日本の高度経済成長は急速で高いものとなりました。このような、いわば保護者付きの企業は新企業と言っても、経営者の精神的負担はおのずから軽いものと言わざるを得ませんでした(安易に横並びでグループごとに似たような企業を作っていると言われました)。