元通産省官僚・株式会社二十一世紀新社会システム研究所代表である、本田幸雄氏の著書『劇症型地球温暖化の危機 太陽光エネルギー革命で日本を再生する』より一部を抜粋・再編集し、明治以降の「日本企業の発展」について見ていきます。
日本企業は「親会社がいないと発展しづらい」が…極めて珍しい「自力で発展した」ものづくり企業 (※写真はイメージです/PIXTA)

新規産業が起きない日本…明治以降の「模倣社会」

日本は欧米に大きく遅れていたので、明治以降は、まず、欧米に追いつけという時代であり、創造性を発揮するよりは欧米から技術や産業を導入することが急務でした。

 

欧米に早く追いつくには、その技術を模倣する方が経費もかからず、安易で、しかも確実でさえありました(もちろん、特許料は払ってのことですが)。ただひたすらその技術を取り入れ、がむしゃらに働けばよかったのです。

 

その後の日本産業の発展に最も貢献し、500もの企業の創設に関わった渋沢栄一も、もっぱら欧米の企業・産業のお手本があり、それの導入を奨励していたのです。そこには、ほとんど創造性を発揮する必要性はありませんでした(技術を日本に向くように改良することは日本人はうまいと言われてきました。ずっとやっていてそうなったのです)。

 

これがやがて、産業を起こすには創造性を発揮しなくてよい、発揮しなくても産業は起こせるという風潮を生んでしまいました。

 

それでは、日本の企業はどのようにして発展してきたのでしょうか。

 

まず、リスクが多い最初の段階は、国が官営の工場や鉱山を開発して、モデルを示すという方法をとりました。技術は、欧米の技術者の指導でした。その後、ある段階を過ぎると、この官営工場や鉱山を破格の安い価格で民間に払い下げました。

 

日本は、このように政府の特別の保護と結びつくことで企業の発展を導き出した政商型の企業として出発しました。

 

明治に始まった三菱、三井、住友、藤田、浅野などはみな政商として出発しながら、鉱山で初期資本の蓄積を行い、財閥となり、その後、重化学工業などの産業資本へ転化していきました。つまり、明治の初期に生まれた財閥系企業は、時代の変化に対応して大きくなり、大企業(親会社)が子会社を作って時代の流れに沿ってきたのです。

 

金は親が出し技術はそのつど、欧米から導入するというもので、創造性を発揮する必要性はほとんどなかったと言えます。