物価が安く、気候が温暖なフィリピンでセカンドライフを送る年金生活者は少なくない。彼らの間には、知らない者はいないといっても過言ではない、草分け的存在の女性が存在する。退職者の海外移住が日本で話題となり始め、彼女が移住した当時について、ノンフィクションライターの水谷竹秀氏が解説する。 ※本連載は、書籍『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)より一部を抜粋・再編集したものです。
「老人の輸出か!」といわれた移住だが…フィリピンでの年金生活「先駆者」の実に贅沢な暮らし (マニラ湾に沈む夕日は「東洋の真珠」とも呼ばれるほど 撮影:水谷竹秀氏)

「車の次は老人の輸出か!」政府が推奨した当初は…

私は小松崎さん本人と面識はないが、一度だけ、電話で話したことがある。フィリピン邦人社会についての取材の一環で、フィリピン暮らしの長い彼女にも話を聞こうと思ってのことだった。甲高い声で話す彼女の声は、今でもかすかに耳に残っている。

 

「こっちは物価が安いし、メイド、ドライバーは何人もいるし、気候も暖かくて人々も温かい。日本と比べたら最高よ。日本にいたら寒さにふるえて、今頃は死んでいたと思います。私はとにかく冬が苦手でね。体が弱くて風邪をひいてばかりいました。

 

日本は忙しい国だから、隣近所の付き合いもありません。ここはのんびりできるから、私も長生きできたんでしょう。フィリピンさまさまですね」

 

マニラ湾沿いには馬車も走っている
マニラ湾沿いには馬車も走っている

 

彼女は当時、マニラから車で南に約1時間半の高齢者施設に住んでいた。まだまだ元気いっぱいといった声色だったが、この電話から2年後の2011年夏、病状を悪化させて日本へ帰国し、帰らぬ人となった。享年85歳だった。

 

●シルバーコロンビア計画

 

退職者の海外移住が日本で話題に上り始めたのは、通商産業省(現経済産業省)が1986年に打ち出した「シルバーコロンビア計画」が発端である。

 

これは「シルバーコロンビア計画“92”……豊かな第2の人生を海外で過ごすための『海外居住支援事業』」のことで、1992年を実現の目処(めど)とし、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年からちょうど500年後に、シルバー世代にとっての新天地を海外に作ろうという意味が込められていた。

 

『老後をアジア・リゾートで暮らす』(戸田智弘著、双葉社)によると、この計画の概要は次のようなものだった。

 

①定年退職後を海外の保養地で暮らしたいと考えている人たちが増えている。

 

②候補地としてあがっているスペイン、オーストラリア、ニュージーランドなどの国は、日本に比べて、住宅事情、物価水準、気候などの面で多くのメリットがある。

 

③しかし、言語や食習慣の違い、医療などの面で不安も多い。

 

④そこで、日本人が長期滞在するのにふさわしい「海外生きがいタウン」を民間主導で整備する。

 

⑤この構想が実現すると、居住者は年金だけで、日本では味わえない豊かな自然と住環境の中で暮らすことができる。

 

⑥受け入れ国側にとっても、年金という外資が入ってくる上に、観光を始めとするさまざまな経済効果が見込める。

 

計画は発表後に注目を集めたが、「車の次は老人の輸出か!」「政府の仕事は安心して老後を過ごせる環境を国内に作ることだ!」などという手厳しい批判が国内外から寄せられ、その内容は修正された。