うつ、不安・緊張、対人関係の問題、依存症――近年、これらの悩みを抱える人はますます増えている。実は、それぞれに共通する原因になり得るものとして、親との関係によって築かれる「愛着」がある。ここでは、「愛着アプローチ」という手法を用いて、現代人の悩みの解決に寄与したい。※本連載は、精神科医・作家である岡田尊司氏の『愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる』(光文社新書)より一部を抜粋・再編集したものです。

大人の発達障害にも「愛着の安定化」は欠かせない

今日、家庭でも学校でも身近な問題となり急増しているとされるのが、発達障害である。晩婚化や出産の高齢化以外にも、近代的なライフスタイルに、発達障害を増加させる要因がひそんでいるようだ。虐待が増えているが、重度の愛着障害によっても発達障害と見分けのつきにくい状態が生じることから、虐待に伴う愛着障害の増加も、発達障害の増加の一因になっている可能性がある。

 

発達障害の場合に、しばしば問題とされるのは、診断はされたものの、その後の手当てやフォローがないということである。発達障害は、遺伝的要因が強い障害だと考えられているので、治療がそもそも難しいとされている。まだ幼いうちであれば、療育を受けることで改善が期待できるとされるが、どのような療育方法が改善に有効かについては、まだよくわかっていないのが実情で、試行錯誤しながら、さまざまな試みがなされている。

 

遊びの中で自然に身につけさせるのがいいという人もいれば、多少無理にでも教え込む必要があると考える人もいる。四つん這いで歩くのが最も有効だと考える人もいれば、ピョンピョン飛び跳ねてバランスをとるのがいいという人もいる。専門家の意見もまちまちだ。

 

だが、ある意味、何をするかよりも、もっと大事なことがあるのかもしれない。それは、「子どもが楽しんでやっているか」ということと、「療育の担当者やその場所が、子どもにとって安全基地となっているか」ということである。

 

大きな進歩が見られたケースを見返してみると、この二つが満たされているように思う。この二つの特徴は、もしかしたら、同じ一つのことなのかもしれない。経験的にいえることは、母親や父親との愛着が安定している子どもほど、たとえ発達障害があっても、その後の社会適応において困難が少ないということだ。

 

両親と安定した愛着を育むことが、療育や障害のトレーニング以上に、その子を守ることになる。そして療育やトレーニングの効果も出やすいのである。療育やトレーニングに通う効果の一部には、母親と一緒に手をつないで通い、母親に独占的にかかわってもらえることもあるのかもしれない。だとしたら、せっかく療育に通っても、母親が子どもに対して上の空であったのでは、効果が削り落とされてしまう。

 

もっと年齢が上がった大人の発達障害のケースも、今ではあふれているが、彼らの社会適応を改善する上で大事なのも、愛着の安定化である。障害自体がまったく変わらなくても、安全基地となる存在がうまく機能するかしないかで、別人のような違いが生まれる。たとえば、次のケースのように。

ある新聞記事に「これは自分のことではないか?」

【事例:十年以上ひきこもっていた女性】

 

三十代後半の女性が、社会に出ていくのにどうしたらよいかわからないと、助けを求めてやってきた。自分は発達障害ではないか。そのことも調べてほしいという。

 

大学を卒業したものの、就職に躓き、以来十年以上、ひきこもりの状態が続いているという。最初の数年は、両親は社会に出られないわが子の状態に戸惑い、何とかしようと、方々の医療機関や相談センターに連れていき、改善策を探ったという。

 

しかし、そんな両親の思いは裏目に出て、本人との関係は悪化の一途をたどった。大きな衝突が何度もあり、家の中で暴れることもあった。その一方で、そんな自分の状態に落ち込み、自傷行為をくり返していた時期もあった。

 

三十を過ぎ、両親も半ばあきらめる形で、本人に何も言わなくなった。本人は好きなように暮らしていたが、両親とは「冷戦状態」で、ほとんど口もきかないままに、何年も過ぎていった。

 

(※写真はイメージです/PIXTA)
(※写真はイメージです/PIXTA)

 

三十代も半ばを過ぎ、もうこのまま人生が終わってしまうのかと、本人も両親も思いかけていたとき、ある新聞記事が目に留まる。それは発達障害についての記事で、障害だと知らずに過ごしている人もまだたくさんいるというようなことが書かれていた。

 

それをたまたま読んだ女性は、「これは自分のことではないか」と思う。だとしたら、きちんと診断を受けてみたい。それでも、しばらく躊躇っていたが、数か月後、思い切って診察の予約を取ったのである。それも、自分で。その決断から、彼女の人生は大きく動き始めることになる。

浮かび上がったのは、やはり「不安定な愛着の問題」

彼女の成育歴には、たしかに発達障害を示唆する特徴的なエピソードが認められた。小さいころからおとなしく、一人で遊ぶことが多かった。自分から友達を誘うことはなく、あまり目を合わせない子どもだった。神経が過敏で、大きな音を異様に怖がった。勉強はできたが、運動は苦手で、手先も不器用だった……。

 

発達検査をしてみると、言語理解は平均を大きく上回っているのに対して、処理速度が、逆に平均を大きく下回っていた。アスペルガータイプの自閉症スペクトラムによく見られる発達の偏りだった。言語的な能力と、作業的な能力の間に大きな乖離があるのだ。彼女自身が疑った通り、自閉症スペクトラムと診断されたのである。

 

そのことで、彼女は自分の苦しみの正体を知り、自分が怠けていたわけではないのだと思えたという。障害だと診断されることで、彼女はこれまでの苦難の人生の意味を納得し、少しは受け入れることができたのだ。この点は、「医学モデル」の効用だといえる。そのメリットの部分は、大いに活用すべきである。

 

ただ、発達障害があったということだけでは、彼女に起きていた問題をすべて説明するには、少し無理があるように思えた。大学までは、さほど問題なく適応できていたのに、就職活動さえ満足にしないまま、なぜこれほど長期間、ひきこもってしまったのか。

 

また、その間には、自傷行為をくり返し、自己否定と希死念慮にとらわれていた時期が、相当期間あった。そこにかかわっていると思われたのは、両親との不安定な関係である。もちろん、そのような症状に対して、境界性パーソナリティ障害のような診断を追加することも可能かもしれない。だが、診断名を羅列するだけでは、問題の本質につながらないのではないのか。

 

そこに浮かび上がるのは、やはり不安定な愛着の問題である。

四六時中ケンカする両親、娘は空気を読むしかなく…

その後、徐々に語られることになる彼女の人生の物語は、すべてがうまくいっていると思われていたころでさえ、心寂しく困難なものであった。彼女の両親は、二人とも知的な専門職に就いており、母親も、彼女が幼いころからずっと働いていた。父親にも母親にも遊んでもらった記憶はない。

 

彼女はいわゆる鍵っ子で、たった一度だけ、帰ったら玄関の鍵が開いていて、恐る恐る中に入ると、いないはずの母親が「お帰り」と言って迎えてくれたのを覚えている。よほどうれしかったのだろう。家族で旅行にも出かけたはずだが、楽しかったという思い出はない。覚えているのは、いつも父と母がケンカをしていて、空気がピリピリしていたことだ。

 

父親が怒鳴り出すと、母親が金切り声で応戦した。母親は、仕事と家事に追われて余裕がなかったし、父親も管理職に昇進して、仕事のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。父親を怒らせないように、二人がケンカにならないように、間をとりもつのが彼女の役目だった。

 

「誰も、私の気持ちを聞いてくれる人はいなかった。私の気持ちになんか、誰も興味がないようだった」と、後に語ってくれた。

 

ただ、父親も母親も学歴に価値を置いている点では一致していて、「一生懸命勉強して、国立大学に入らないとダメだ」と言うのだった。そのことは小さいころから何度も聞かされていたので、絶対にやり遂げなければならない使命のように思っていた。

 

幸い勉強はよくできた。消極的だったが、学校生活もそれほど問題なかった。両親は彼女に大きな期待をかけていた。実際、彼女はその期待に応えて、現役で国立大学に入った。だが、その先までは、考えていなかった。

 

勉強という単純な物差しで生活が動いている間は、ある意味、楽だった。ところが、大学に入ると、物差しが一つではなくなった。どんなファッションの服装をするのかとか、おしゃべりや冗談をうまくかわすとか、異性に好かれるとか、わかりにくい物差しがいくつもできて、それをうまくこなせないと、浮いてしまう。

 

楽しそうにおしゃべりをかわすクラスメートについていけず、疎外感を味わうことが多くなった。「勉強ができる子」ということで保っていた自分のプライドが、ガラガラと崩れ始めていた。大学に行くのが苦痛になり、講義もさぼるようになった。

 

留年してしまったとき、父親は事情も聞かずに怒鳴りつけ、顔を殴った。「お前には失望した」と吐き捨てられた言葉だけが、耳に残った。そんなときも、母親は何も言わず、父親が怒るのも当然だという態度だった。それからだった、彼女が、リストカットをするようになったのは。

 

二年留年して、何とか卒業したが、彼女の中には、社会に出て働く気力も勇気もなくなっていた。就職をせっつく両親との間で、緊張の高まった日々がしばらく続いた。内にも外にも敵しかいないと感じ、死にたいと思った。死ねないのは、勇気がないだけだった。

 

就職のことで、いがみ合い、ぶつかり合った日々から、さらに十年もの歳月が流れていたが、心の傷はまだ癒えず、ろくに口もきかない状態がまだ続いていたのである。もともとあった「恐れ・回避型」の愛着に、未解決型愛着も加わって、傷つきやすさを、周囲と距離をとることでしか守れない状況に陥っていたのだ。

 

彼女が大学にうまくなじめなかったのは、発達障害による困難もあったが、愛着の観点からいえば、子どものころから安全基地をもたずに育ち、しかも、絶えず安全感を脅かされる中で、恐れ・回避型の愛着を身につけてしまっていたことも影響していると考えられる。恐れ・回避型の人は、自分なんかどうせ受け入れてもらえないという恐れから、自分をさりげなくさらけ出すことができない。

 

恐れ・回避型の人は、しばしばひきこもり、外界との接触を断つことで、何とか自分の安全を守ろうとする。さらに、父親の無理解によって傷つけられ、未解決型の部分まで背負うことになったのである。ひきこもりが十年以上もの長きにわたってしまったのには、二重に傷ついた愛着のダメージが影響したと考えられる。

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