「ここなら安心だね」本人も納得して決めた住み替え
「もう帰っちゃうの?」
83歳の母・文子さん(仮名)にそう聞かれたとき、55歳の長男・浩一さん(仮名)は戸惑ったといいます。
文子さんは夫を8年前に亡くしてから、郊外の戸建てで一人暮らしをしてきました。
炊事や洗濯など身の回りのことは自分でできます。認知症の診断もなく、近所のスーパーへ出かけることもありました。
ただ、80歳を過ぎてから、浩一さんが気にする場面が増えてきました。
ある冬には、浴室で足を滑らせそうになったと聞きました。庭の手入れも負担になり、2階はほとんど使わなくなっています。
浩一さんの自宅までは車で1時間ほど。週末なら様子を見に行けますが、仕事のある平日は簡単ではありません。
「何かあってからでは遅いし、もう少し安心できるところに住むのも考えてみない?」
浩一さんが提案すると、文子さんも「私もこの家をいつまで管理できるか分からないしね」と応じました。
そこで親子が見学したのがサ高住です。
サ高住は、高齢者向けの一定の設備を備え、少なくとも安否確認と生活相談のサービスが提供される住宅です。介護施設とは異なり、必要な介護サービスについては入居者が別途契約して利用する形の住宅もあります。
文子さんが選んだのは、自室にトイレや洗面設備があり、食事も希望すれば利用できる住まいでした。
「ここなら掃除するところも少ないし、買い物に行けない日はご飯も頼めるのね」
本人も気に入り、入居を決めました。
83歳という年齢も、サ高住では珍しいものではありません。国土交通省『第6回サービス付き高齢者向け住宅に関する懇談会 資料1「高齢者の住まいに関する現状と施策の動向」』では、サ高住入居者の平均年齢は84.2歳。85~89歳が30.1%、90歳以上が29.9%で、85歳以上が約6割を占めています。
引っ越し当日も、大きな問題はありませんでした。
長年使っていた小さな棚や写真立て、いつも座っていた椅子も新居へ運びます。浩一さんは夕方まで荷ほどきを手伝いました。
「じゃあ、今日は帰るね。また週末に来るから」
そう言って玄関へ向かおうとしたときです。文子さんが聞きました。
「もう帰っちゃうの?」
「うん。また来るよ」
「今日だけ泊まっていけない?」
浩一さんは意外に思いました。
見学にも一緒に来て、入居を決めたのは母自身です。それまで「嫌だ」「住みたくない」と言ったこともありませんでした。それでも、実際に一人で最初の夜を迎える段階になって、文子さんは不安を口にしたのです。
