(※写真はイメージです/PIXTA)
退院後に待っていた、あまりに非情な現実
幸い命に別状はなかったものの、3週間の入院を余儀なくされました。病室のベッドの上で、良雄さんの頭を占めたのは、仕事のことよりも父のことでした。
すぐに兄の浩一さんに電話をかけ、事情を説明し、父の世話を頼みました。 「わかった。こっちで何とかするから、お前は自分の体のことだけ考えろ」 電話口の兄の声は力強く、良雄さんは少しだけ安堵の息を漏らしました。
入院中、何度か浩一さんに父の様子を尋ねましたが、「大丈夫だ、うまくやっている」と短い返事。
そして退院の日。医師からの「まだ無理は禁物ですよ」という言葉を背に、良雄さんはタクシーで実家へと向かいました。ドアを開けると、そこには静寂だけが広がっていました。いつもならテレビの音が聞こえ、父が「おかえり」と言ってくれるはずですが、リビングはがらんとして人の気配がありません。言いようのない不安に駆られ、良雄さんは震える手で浩一さんに電話をかけました。
「兄さん、今実家に着いたんだけど、親父はどこにいるんだ?」
電話の向こうから返ってきたのは、悪びれる様子もない、平坦な声でした。
「ああ、親父なら老人ホームに入れたよ」
一瞬、言葉の意味が理解できませんでした。老人ホーム? 誰が、いつ、決めた? 何より、父自身の意思はどうなったのか?
「な……なんで相談もなしにそんなことを。親父はなんて言ってるんだ!」
声を荒らげる良雄さんに対し、浩一さんは面倒くさそうに吐き捨てるように言いました。
「うるさいな、文句があるなら自分で何とかしろ!」
その言葉に、良雄さんのなかで何かが切れました。兄の生活を乱すまいと、自分が倒れるまで必死に介護を続けてきた日々――気づけば、良雄さんは大声で叫んでいました。
「血も涙もないのか! お前なんか人間じゃない!」
介護をめぐる家族間のトラブルは珍しいことではありません。特に、介護の負担が特定の家族に偏ってしまった場合、金銭的な問題や将来への不安が絡み合い、家族間の溝を深める要因となり得ます。
厚生労働省は仕事と介護の両立を呼びかけるなか、「実際に父母に介護が必要になったら、配偶者や子ども、兄弟姉妹の協力も不可欠です」と説いています。早い段階で家族会議を開き、親の意向を確認しながら、誰が何を担うのか、費用負担はどうするのか――きちんと決めておきます。また、地域包括支援センターなどの公的な相談窓口を活用し、専門家のアドバイスを受けながら、家族だけで抱え込まないようにすることも重要です。
負担の大きな介護。良雄さんのように、ある日突然、介護者自身が倒れてしまうケースも少なくありません。最悪の事態を想定し、事前に複数の選択肢を家族で共有しておくことが、大切な家族を守ることに繋がります。
[参考資料]
厚生労働省『雇用動向調査』
厚生労働省『仕事と介護の両立支援 ~両立に向けての具体的ツール~』