生徒に勉強を教える教師にも、様々なタイプがいます。知識の詰め込みを重視する先生もいれば、人間性を育むことを大切にする先生もいるでしょう。しかし、一見すると「どちらも良い先生」に見えるアプローチの中に、生徒の成長を止めてしまう落とし穴が潜んでいることもあって……。本記事では、ロバート・キーガン氏著『ロバート・キーガンの成人発達理論――なぜ私たちは現代社会で「生きづらさ」を抱えているのか』(英治出版)より、2つの異なる教育哲学を持つ教師たちの授業風景を分析。表面的な教え方の違いを超え、生徒を成長させられる教師と、そうでない教師の本質的な差を紐解いていきます。
本当に「良い先生」の共通点…ハーバード大学名誉教授が明らかにする、教育現場に潜む「教え方の罠」 (※写真はイメージです/PIXTA)

4パターンの教育的アプローチを比較してわかること

前述の3つのアプローチのうち1を選択する教師B(相手に敬意を払う行動に関してルールを設ける教師)の、社会性の発達についての教育理論は、本人が気づいているかどうかはともかく、概念を丸暗記させる教師Aのそれと酷似している。授業の重点を、教師Aはマインドに関わる内的活動、教師Bは身体に関わる外的活動を導くことに置いているが、どちらの教師も、(内的か外的かはさておき)行動を効果的に形成することを、よい教育の本質だと考えている。

 

2のアプローチを選択する教師B(真摯に諭す教師)は、魂を惹きつけること、中学生をいわば改宗させることに、授業の重点を置いている。3のアプローチを選択する教師B(グループ・セラピーを実施する教師)は、魂の癒やしに、授業の重点を置いている。

 

3つのタイプのいずれの教師Bも、目指すのは「全人的な」教育だ。だが、彼らが行動の矯正者、世俗の聖職者、アマチュア精神科医という立ち位置から「社会性の発達を促して」いるのとは対照的に、教師B’だけは、同じく全人的な教育を追求するにあたり、よい教育とは生徒のマインドを成長させることにあると考えている。

 

また、彼らは皆、同じ1つのビジョン(あるいは、授業を活気づける象徴的な考え方)を持っているが、3タイプの教師Bが導いたり「改宗」させたり癒やしたりするのと違い、教師B’だけは、自身から生じるわけではない内的衝動、つまり目的因(テロス)を支援している。

 

教師B’にとって、教えるための内的衝動とは、どんなものなのか。教師B’は、自身からではなく、生徒と生徒自身の活力から生まれる内的衝動を支援している。生徒の自然に起こる認識論的発達を、それが社会的理解の領域であらわれると同時に支援している。また、彼がマインドをうまく成長させることができるのは、生徒の現在の認識論的状態の強さと限界の両方に真摯に関わるための方法を編み出しているからだ。彼は、「生徒が今いる場所で」生徒と真摯に関わりつつ、生徒にその場所を超えて一歩進むよう求めるのである。

 

それをどんな方法で行うのか。教師B’がクラスでの議論という「ゲーム」に加えたちょっとしたルールは、単なるクラス運営より工夫が凝らされており、生徒たちの意識におのずと課せられるカリキュラムと合わさって1つになる。生徒は、相手の観点からものごとを捉える「持続的カテゴリ」の能力を持っているので、クラスメートの立場に立ち、その主張を繰り返すことはできる。だが、複数の観点を同時に持つこともそれらを統合することもできないため、クラスメートの立場に立つときには、生徒は、自分がよいと思っている観点を一時的に手放すことになる。

 

最初はクラスメートの考えを歪曲しようとするので、必ずしも喜んで手放すわけではないが、生徒は、自分がよいと思う考えを言いたいがために、楽しいわけではないその方法を受け容れることになる。ポイントは、はじめは目的達成のための単なる手段に見える楽しくないその方法が、おそらく目的そのものになると思われる点だ。

 

なぜなら、吸収して一体になることなく他者のものの見方について考え続けるためには、自身のものの見方の外へ絶えず出ることが必要であり、それは、自身のものの見方を主体ではなく客体にすることへの、そして自分のものの見方と他者のものの見方との関係を考えることへの移行にほかならないからである。

 

このアプローチは、教師A’のアプローチと同じく、「持続的カテゴリを超えた」意識の成長を後押しするのである。以上からわかるように、教師A、A’、B、B’は、教師を分かつイデオロギーに関して、2つの重要な点を示している。