生徒に勉強を教える教師にも、様々なタイプがいます。知識の詰め込みを重視する先生もいれば、人間性を育むことを大切にする先生もいるでしょう。しかし、一見すると「どちらも良い先生」に見えるアプローチの中に、生徒の成長を止めてしまう落とし穴が潜んでいることもあって……。本記事では、ロバート・キーガン氏著『ロバート・キーガンの成人発達理論――なぜ私たちは現代社会で「生きづらさ」を抱えているのか』(英治出版)より、2つの異なる教育哲学を持つ教師たちの授業風景を分析。表面的な教え方の違いを超え、生徒を成長させられる教師と、そうでない教師の本質的な差を紐解いていきます。
本当に「良い先生」の共通点…ハーバード大学名誉教授が明らかにする、教育現場に潜む「教え方の罠」 (※写真はイメージです/PIXTA)

「基本に戻る」考え方の教師A

たとえば次のように答えるかもしれない。「今のは、人生の皮肉の説明とは言えませんね。説明ではなく例です。そこにどんな意味を見出すかによっては皮肉を示す的確な例になるかもしれませんが、決して説明ではありません。さあ、人生の皮肉とはどういうものかを、例を挙げるのではなく、説明できる人はいませんか」ここから先は、たとえば次のような展開が考えられる。

 

1.何人かの生徒が手を挙げ、皮肉についてさらにいくつか例を述べるが、教師Aはそれらを皮肉の説明だとは認めない。

 

2.やがて生徒たちのあいだに沈黙が広がる。

 

3.生徒たちを困惑させた教師は、人生の皮肉という言葉を説明し、おそらくその説明を黒板に書く。生徒たちがノートに写し、暗記して、テストに備えられるように。

 

以上のように授業を進めた教師Aにしてみれば、正解を教える前に、生徒たちにより積極的に言葉の意味を考え、興味を持たせることができたと思うだろう。一方、タイプの異なる教師A’なら、違う対応をするかもしれない。

 

教師Aと同じ考え方の、教育的アプローチが異なる教師A’

「今のは、人生の皮肉についての素晴らしい例ですね。黒板に書いて、丸で囲んでおきましょう。では、ほかに誰か皮肉の例を挙げられる人はいますか。この小説の内容に限らないし、どんな例でもかまいません」その後の展開は、たとえば次のようになるだろう。

 

1生徒たちが人生の皮肉についてさらに多くの例を挙げる(「サマンサ・スミスという女の子の話が人生の皮肉を示していました。世界平和のためにロシアへ行ったのに、その後飛行機事故で命を落としてしまったのです」や「デニス・エカーズリーはレッドソックスの投手でしたが、のちに移籍し、古巣レッドソックスを負かしてチームの優勝に貢献しました。これも人生の皮肉です」など)。教師A’は、どの例についても褒め、黒板に書き、丸で囲む。

 

2そして次のように言う「発言はここまでにして、集まった素晴らしい例を全部、さっと見ていきましょう」。その後、先ほど丸で囲んだ例をすべて含む、大きな丸を1つ描く「では、人生の皮肉とは何かを、すべての例に当てはまるように、説明できる人はいますか」。

 

3この時点で、生徒たちは皆で一般化に取り組み、その結果がすべての例に当てはまるかどうか確認する。

 

教師Aと教師A’はどちらも、「基本に戻る」理念を支持している。ふたりとも、認知的な1つの概念について教えようとしており、教え方も心得ている。どのような手順を踏めば「ティーチャブル・モーメント(教える好機。最適なタイミングでの指導・介入)」を生み出せるかも、ともに知っているが、その生み出し方が異なっている。

教師Aと教師A’の本質的な違い

教師Aは、知識を増やす丸暗記の勉強法を教えるために「ティーチャブル・モーメント」をつくり出している。一方の教師A’は、生徒たちのマインドを発達させること、意識の次元を進化させることに、心を砕いている。

 

どのような方法によってか。彼は、生徒たちが人生の皮肉の意味を一般化できていないことを当人たちに示し、その概念を暗記させるのではなく、生徒たちの成長の最先端部―具体的思考から抽象的思考(基底に具体的思考を含む)へとスムーズに移行できない状態―にまっすぐ働きかけている。

 

どちらの教師にせよ、その要求(人生の皮肉とは何かを説明すること)は、「持続的カテゴリ」の次元のマインドを超えている。事例と定義の違いはまさしく、具体的な事実(第2次元の理解の仕方)と抽象的な一般化(第3次元の理解の仕方)の違いなのだ。教師A’は具体的思考を、抽象的思考への道として歓迎することによって、大半の生徒に認識論的にほんの少し背伸びさせることになるティーチャブル・モーメントをつくり出している。事例を客体として捉え、そのすべての客体を含むことになる新たな知識構造をつくり出すよう、生徒を促すのだ。

 

編集注

「第2次元のマインド」

第2次元のマインドは、「持続的カテゴリ」と呼ばれ、自己や他者に関わらずあらゆる具体的なものごと・要素を1つの集合に沿って意味構成する原理を指す。第3次元以降のマインドについては「『持続的カテゴリを超えた理解』が必要である」と述べ、複数の持続的カテゴリを横断した、いわば複数の評価軸を意味構成に挿入できる状態、としている。

 

生徒がともに取り組んでつくり出すこの新たな知識構造は、(単に例示するのではなく)定義する能力としてあらわれるが、言うまでもなくそれは、「持続的カテゴリを超えた」意識を使う、それまでよりはるかに大きな力である。