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「全人的な」考え方の教師B
さて、次は教師Bについて考えてみよう。彼もオー・ヘンリーの小説を使うが、教えるのは人生の皮肉という概念ではない。その朝の授業で、生徒たちが白熱した議論を繰り広げるなか、彼が考える学習の目標は、生徒たちがいかに互いの話に耳を傾けるか、いやより正確にはいかに耳を傾けないかに関連している。彼は、生徒たちが互いの話をさえぎるその仕方に目を留める。生徒たちは交互に発言するときでさえ、前の生徒が言ったことを完全に無視したりゆがめたりして、自分の主張に論点を戻すのだ。
教師Bは、「これは解決すべきクラス運営の問題であり、生徒たちを学習の軌道に戻さなければならない」などとは考えない。むしろ、学習の軌道の重要な部分であり学びの機会だと、すなわち敬意を払うこと、耳を傾けること、他者から学ぶことについて教える重要な機会だと、彼は考える。そうしたことを、教師Bはどのように教えるのか。教師Bのタイプの場合、次のアプローチのいずれかを選択する可能性がある。
1.議論における適切な行動に関するルールと、ルールを破ったらどうなるかを明らかにする(たとえば、「途中で口を挟んだ人は15分間発言できない」と申し渡す。あるいは、発言カードを3枚ずつ配る。生徒は発言のたびに1枚使わなければならないので、3回より多くは誰も発言できなくなる)。
2.議論をやめさせ、互いをもっと尊重する必要があることについて真摯に、説得力をもって諭す。
3.議論をやめさせ、少しのあいだ「グループ・セラピー」を実施し、話をさえぎられたり無視されたりするとどんな気持ちになるかについて話すよう促す。
別のタイプの教師である教師B’は、次のようなアプローチをするかもしれない。
教師Bと同じ考え方だが、教育的アプローチが異なる教師B’
彼は議論(ディベート)を続けさせるが、必要条件を1つ追加する。発言者は、自分の主張を述べる前に、前の発言者の主張を、その発言者が認めるくらい正確に繰り返すこと、という条件である。この条件を満たすにあたり、生徒たちは最初、相手の主張を繰り返すも、ここぞと思う部分に関して論点をすり替え、相手を攻撃しようとする。だが、その機会を得ることはない。
なぜなら、笑われようが野次を飛ばされようが、前の発言者は抗議し、あとの発言者に対して、異なる意見について歪曲も自己流の解釈もせず正しく繰り返すこと、それがどんなに気に入らなくても徹底することを要求するからである。
教師Aと教師A’がどちらも「基本に戻る」理念を持っていたように、教師Bと教師B’も、どちらも「全人的な」理念を持っている。自分の授業を通して、生徒の知性の発達だけでなく社会性の発達にも影響をもたらしたいとも思っている。そして、やはりどちらも、教える方法を心得ている。ただし、何を教える方法を知っているかが違う。