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番町【千代田区】…将軍を警備する「大番頭」が住んでいた
番町は東京都千代田区西部に位置する一番町から六番町までを指す6つの町丁の総称。皇居の西側千鳥ヶ淵を臨み、北は靖国通り、南は新宿通りに挟まれたエリアを指します。
番町は山の手の代表的な住宅地の一つで、日本ではじめての高級住宅地と言われています。現在は、かつての大邸宅はほとんど姿を消し、高級マンションやオフィス中心のビル街への変貌もみられます。地域内にはイギリスやベルギーなどの大使館、日本テレビ番町スタジオなどが存在し、また、歴史ある名門校も多い文教地区でもあります。
「番町」という名は、江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番頭と呼び、その大番頭がこの辺りに住んでいたことが由来です。大番頭は設立当初、一番組から六番組まであり、この名目が現在の一番町から六番町に引き継がれています。しかし区画は何度か改編され、江戸時代の大番組の組番号と現在の町目の区画は一致してはいません。
番町を表すことわざに「番町の番町知らず」というのがありますが、これは、樹木が鬱蒼とする人気のない所に、表札もない同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集していたため、住民でさえ地理を認識することが困難であったことから生まれました。そのよ
うな町の雰囲気からか、「番町皿屋敷」や「吉田御殿」、「番町七不思議」などの怪談も生まれています。
近世初頭に番方の屋敷町として成立した番町は、時代が下ると医師や学者、幕府御用絵師の住吉・板谷家などが住むようになります。維新後、武家の世は終わり、明治元年(1868)、新政府によって番町一帯の旗本屋敷は収公され、旗本たちは江戸を去ります。空いた屋敷地に東京府の奨励で桑・茶畑が造られましたが、二年ほどで中止になり、新政府高官の邸宅地となりました。
【番町周辺のおすすめスポット】
◆千鳥ヶ淵
皇居北西側のお堀。桜の名所として有名。お堀にはボート乗り場もあり
◆番町文人通り
麹町大通りと大妻通りをつなぐ通り。周辺には明治から昭和の作家、文学者たちの旧居跡が並ぶ
◆日本カメラ博物館
一番町にある博物館。カメラや写真の企画展を定期的に開催
◆東郷元帥記念公園
三番町にある公園。元は東郷平八郎連合艦隊司令長官の私邸跡地。邸内にあったライオン像や力石が残る
八丁堀【中央区】…880メートル=八町の堀があったから
八丁堀は旧京橋区に当たる京橋地域内にあります。複数の主要バイパス道路に面しているため、交通の便が良い土地です。
関ヶ原の戦いに徳川家康が勝ち江戸の町の開発が進められ、慶長17年(1612)、江戸幕府は西国諸大名に助役を命じて通船便利の為に堀を開削させますが、その一つが八丁堀です。八丁堀の名前の由来は、開削された堀の長さが八町(約880m)あったからだといわれています。
江戸時代初期のこの八丁堀新港地には、多くの寺が建立され寺町を形成していました。しかし、寛永12年(1635)、八丁堀にあった多くの寺は、芝と浅草に移転を命ぜられ、明暦の大火後はほとんど八丁堀から無くなりました。その後、寺のあった場所には町奉行・与力(よりき)・同心(どうしん)の組屋敷が置かれました。その与力・同心は八丁堀に屋敷を構えていたため、自分たちのことを“八丁堀”と称し、“八丁堀の旦那”とか“八丁堀御役人衆”などと呼ばれました。
八丁堀の七不思議の一つに「女湯の刀掛け」という話がありますが、これは実話で、八丁堀にある銭湯は非常に混むことから、同心たちが混雑を嫌い、特に空いている朝の女湯に入る習慣があったため、普段は置かない刀掛けを女湯にも置くことがあったからです。
明治に入ると八丁堀自体は「桜川」と改称されますが、行政区分中に八丁堀の名は残り、現在に至ります。
【八丁堀周辺のおすすめスポット】
◆桜川公園
八丁堀駅A2出口横の公園。桜シーズンは多くのお花見客で賑わう
◆小網神社
強運厄除の神・東京銭洗い弁天の杜。住所は中央区日本橋の人形町エリア
◆警察博物館
京橋にある日本の警察の歴史が分かる博物館。体験型展示もあり
【住建ハウジング】
業界No1の動画数と写真で「東京の一戸建て・土地・投資物件」をご紹介
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