近年「無痛分娩」を選択する妊婦やその家族が増加するなか、医療者が強く制止する「無介助分娩」を選択する方も少なくありません。助産師の市川きみえ氏の著書『私のお産 いのちのままに産む・生まれる?』より一部を抜粋し、現代社会における出産の現状について解説していきます。
現代における出産…「無痛分娩」と「無介助分娩」の二極化が進む背景 (※画像はイメージです/PIXTA)

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現代の「出産選択の二極化」をめぐる疑問

近年増加している無痛分娩は、出産が医療の管理下に行われるものであることを前提に、医療の力で陣痛の痛みを緩和させることで満足のいく出産をしたい選択であるのに対し、プライベート出産(無介助分娩と同義:本人が意図的・計画的に医療者の立会わないプライベートな環境で出産することを決め、準備も整えて行う出産で、かつそれを当事者が自己開示する出産)は、医療の介入がない環境で出産することにより、満足のいく出産をしようとする出産方法の選択です。

 

これらは、現代の出産選択の二極化を表していると思います。

 

では、なぜプライベート出産は医療者の制止に反し行われるのでしょうか。そしてなぜ医療者は強く制止しようとするのでしょうか。

「プライベート出産」が医療者に制止される理由は…

筆者は、プライベート出産が医療者に制止される理由、そして医療者の制止に反し行われる理由は、出産を医学モデルで捉えるか、社会モデルで捉えるかが関係しており、さらに出産選択には、個人の生き方や生命観、すなわち哲学的思想が関係するからだと思います。

 

私は助産師ですから、生命の危機の場面を幾度となく経験しています。医療によって助けられた生命を見てきた私は、出産を医療と切り離して考えることはできません。医療者がプライベート出産の選択を問題視するのは当然です。

 

しかし、その一方で、出産は、例えば陣痛促進剤の被害や無痛分娩の事故などが起こっており、医療が介入することで生命の危険を引き起こすリスクがあることも事実です。そして何より、大きな事故には至ってなくとも、受けた医療の介入で女性が心身ともに傷つくことをも実感してきました。

 

逆に、心と体の準備を整え主体的に出産に臨み、備わった力を発揮した自然出産で至高体験し、エンパワーした女性もたくさん見てきました。ですから、自分の力で産みたいと願う女性の希望、出産選択を否定することはできません。

 

プライベート出産が問題視されるのは、医療者が出産を医学モデルのみで捉えるからではないかと思います。しかし、妊娠出産は、いのちをつなぐ営みで、本来自然の営みです。そして出産のあり方は、歴史の中で社会の変化、地域の文化とともに、遷り変わってきました。

「終活」では本人や家族の意思が尊重される一方で…

近年、「終活」という言葉があるように、終末期においては延命治療の是非が問われ、本人や家族の意思が尊重されるようになりました。また在宅の看取りも見直されています。自宅で家族に囲まれ、最期を迎える選択です。

 

出産は自然の営みであり、家族の誕生です。その本質を考えるとき、どれだけ医療が進歩しようとも、自然死を選択する人がいるように、自分の力で産む自然出産を望み、医療の管理下にない自宅などで、家族に囲まれ出産することを希望する女性は一定数存在し続けるものと思っています。出産を社会モデルで捉え、文化的な視点で考えると当然のことです。

 

コロナ禍で、病院での出産環境は変化し、そして人々の生活スタイルもテレワークが進むなど変化している今、どこでどういう出産をするのが望ましいか、社会モデルの観点から考えてみる機会が与えられたと考えています。

「分娩介助者」と「無介助分娩」の歴史

人の出産には、自然発生的な出産の介助者が存在し、日本ではこのような出産の介助者は「取り上げ婆」などと呼ばれていました。そして「取り上げ婆」は、17世紀初め(江戸時代)から、職種として認められ、「産婆」という呼称は18世紀後半から使われるようになり、明治時代に免許が与えられるようになりました。

 

産婆に免許が与えられたのは、医制が制定された明治7(1874)年からで、医制第五十条では、産婆の「年齢は四〇歳以上」、「免状取得には医師による実験証書が必要」とされています。そして、明治32(1899)年、全国に統一した規則(「産婆規則」「産婆試験規則」「産婆名簿登録規則」)が公布されることで、産婆の身分は確立していきました。

 

なお、この「産婆規則」により、産婆は「年齢は二〇歳以上」、「一年以上の学術修業後、試験に合格した女子」と大きく変更されました。そうして、大正時代には、産婆養成所で学び資格を得た新産婆が増えていきました。

「無介助分娩」は産婆に資格が与えられてできた言葉

大正時代から昭和初期には、新・旧産婆の他に取り上げ婆と呼ばれる無資格の産婆もいました。さまざまな産婆が混在する中、新潟県では産婆の扱わない出産は「産婆無介助分娩」と名付けられ、大正から昭和初期までの動向調査が行われています。

 

この調査によれば、全出産児に対する産婆の取り扱わない産児数の割合は、大正5(1916)年の24.8%から昭和元年には10.1%まで減少し、昭和14(1939)年は5.9%となっています。「無介助分娩」という用語は、ここで初めて登場します。このことから、「無介助分娩」という用語は、産婆に資格が与えられたことによって初めてできたことがわかります。

 

資格のない取り上げ婆が介助する際には、「“無”介助」とみなされることになったのです。

 

なお、産婆無介助分娩は産婆の開業する地域差が直接関係していました。産婆は都市で開業し山間農村地帯で開業しないため、産婆無介助分娩は山間農村地帯に多かったのです。

 

このように、産婆は明治時代に資格が与えられ専門職として確立し、資格を持たない介助者は無資格産婆(取り上げ婆)として区別され、取り上げ婆の介助による出産や、取り上げ婆もなく産婦がひとりで行う出産は、「無介助分娩」として扱われることになりました。

 

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市川 きみえ

助産師

清泉女学院大学大学院看護学研究科・助産学専攻科・看護学部看護学科 准教授

 

1984年大阪市立助産婦学院卒業。大阪市立母子センター勤務の後、医療法人正木産婦人科にて自然出産・母乳育児推進に取り組み、2011 年より助産師教育・看護師教育に携わっている。2010年立命館大学大学院応用人間科学研究科修士課程修了 修士(人間科学)。2018年奈良女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了 博士(社会科学)。2021年より現職。

著書に『いのちのむすび─愛を育む豊かな出産』(晃洋書房)がある。