物価が安く、気候が温暖な東南アジアでのセカンドライフを目指す高齢者は多い。若い現地人妻・温かい家族と豪邸で暮らす人も少なくはないが、言語や環境に適応できず、女性にも捨てられて無一文で暮らす人がいるのも事実である。それでも日本で老後を送るよりは…と海外移住を決意した人々には、それぞれ語られるべきドラマがあった。ここでは、フィリピンで長く取材を続けたノンフィクションライターの水谷竹秀氏が、マニラで暮らす日本人男性・小林さんと、妻・エレンさんのこれまでを紹介する。 ※本連載は、書籍『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)より一部を抜粋・再編集したものです。
元警官男性「マニラで年金暮らし」24歳下フィリピン人妻との仲睦まじさに“正直驚いた”ワケ (小林夫妻 撮影:水谷竹秀氏)

「お父さんの給料安いから」17歳で日本へ渡ったエレンさんだったが…

エレンさんは12人兄弟の五女としてマニラで育った。父親は空軍兵士で、空軍機の整備を担当していた。そんな父親の給与だけでは子供たちを大学へ行かせることができず、エレンさんは日本へ出稼ぎに行くことに。

 

すでに日本のフィリピンパブで働いていた姉から斡旋業者を紹介してもらい、高校卒業後、間もなく日本へ渡った。

 

それは17歳の秋だった(フィリピンの義務教育期間は当時、小学校6年生、高校4年生の10年間であったため、高校卒業時の年齢は16歳となる)。

 

「日本に行ったのはやっぱりお金の問題。だって12人兄弟でしょ? 両親だけで全部子供の面倒見ることできないじゃない? お父さんの給料安いから」

 

成田空港から就労先のパブがある鳥取県に到着してみると、思い描いていた日本の近代的な風景とは裏腹に、人気のない閑散とした街並みが、エレンさんには寂しげに感じられた。

 

エレンさんが日本へ渡ったのは1980年代初め。この頃から日本ではフィリピンパブが全国津々浦々へ広がり、外国から出稼ぎに来るこういった女性たちのことは当時、「ジャパゆきさん」と呼ばれた。女優のルビー・モレノさんが日本で働いていた時期とも重なり、エレンさんはいわば、日本におけるフィリピンパブの全盛期をくぐり抜けてきた。

 

開店1時間前の午後6時には、アパートへ迎えに来る車にみんなで乗り、出勤した。

 

「私は17歳だったから最初、お酒は飲まなかったわ。兄弟とか親のためにお金を稼がないといけないから、体を触られたりとか嫌なことがあっても受け入れざるを得なかったの。お客さんの指名がなかったり、言うこと聞かなかったりしたら、店長から『アパートへ帰れ』と言われるのがすっごい恐かった」

 

初任給は1ヵ月300米ドル(約7万5000円、当時、1ドル=約250円)。その中から遠く離れた故郷に住む兄弟に送金を続けた。

 

「日本で働く女の子はみんなお金が欲しいから。男探したり恋人見つけたりするのが目的じゃない」

 

就労契約期間は半年。一度フィリピンに戻り、続いて今度は鹿児島のパブで働いた。群馬県、福島県でも働き、20代半ばからはずっと関東地方だった。仕事が時々、辛くなって更衣室で泣いたこともある。