戸籍を辿り続け、ついに「200年前」の先祖を発見!
<登場人物>
葛西 美々(かさい みみ)
戸籍を見て先祖に興味を持ち、家系図作りに取り組む高校3年生。素直で真面目な性格。
筧 探(かけい さぐる)
「家系図作成講座」の講師。年齢不詳で、ひょうひょうとした雰囲気。
※本連載では、家系調査をするという目的上、差別的意味合いを含む可能性のある語句を差別的意図ではなく、歴史的用語として用いています。
できるだけ古い戸籍を取得してくること──これが、前回の講座の宿題であった(関連記事『戦国時代から中世・古代まで…戸籍のない時代の先祖を遡る方法』)。
江戸時代の先祖の戸籍(図表1)を前に、美々(みみ)は少し感動していた。
天保(てんぽう)・弘化(こうか)・安政(あんせい)…聞きなれない年号。江戸時代の先祖だ。戸主は「葛西○之介」…なんて読むのだろう? その隣は「ふゆ」? 「○八郎」? 「ふみ」?
前回の講座後、清岡区役所の職員さんのアドバイスと、筧(かけい)先生のレジュメを頼りに、釧路(くしろ)市役所に戸籍を請求した。すると、「2代前葛西啓治(けいじ)」…こないだ死んだおじいちゃんが阿寒(あかん=現在の釧路市阿寒)で生まれていることがわかった(図表2)。
釧路市役所に戸籍を請求すると、阿寒(当時の阿寒郡阿寒村)で生まれ、その後いくつか転籍し、結婚・出産を経て釧路市へ。そしてついこないだ86歳で死亡、という祖父・啓治の戸籍上の軌跡がすべてわかった。そもそも父・啓介(けいすけ)から頼まれたのが、相続手続きのために、祖父・啓治が生まれてから死ぬまでの戸籍を取得することなので、ここで任務は終了。
だが、さらに古い戸籍を追ってみた。
「2代前葛西啓治」の前は、「3代前葛西丑蔵」。美々の、ひいおじいちゃんだ。読み方がわからないので父に聞くと、「うしぞう」だと教えてくれた。丑蔵の戸籍には、丑蔵の子どもとして、祖父・啓治とその兄弟姉妹が載っていた。
系図に書き起こす(図表3)。
さらにたどると、「4代前 葛西綱次郎(つなじろう)」が「3代前 葛西丑蔵」を連れて、大正7年に青森県南津軽郡飯柳(いいやなぎ)村というところから、北海道阿寒村字雄別(あざなゆうべつ)に転籍してきたことがわかった。
大正7年は1918年。私の家は100年前に、青森から北海道に来たのか…。
父に聞いてみると、「先祖が東北とは聞いてたけど、詳しくは知らない」とのこと。家系に関する聞き伝えも聞いてみたが、「家紋(かもん)も何も全くわからない」とのこと。ただ、「家老(かろう)だとかなんとか言ってた気がする」とのこと。だが、「家老」というのは殿様に次ぐナンバー2らしく、「うちがそんなに偉いわけないから、どうせ嘘(うそ)だと思うけどな」と笑っていた。そもそも「自分の家系に興味がない」とのこと。
まぁ、それはわかってたんだけどさ…なんとなく。とうちゃんは、じいちゃんをあまり好きじゃなかったんだもんな…。
綱次郎や丑蔵の兄弟姉妹を系図に書き足した(図表4)。
父の関心は得られなくとも、釧路市の役所に請求した要領で、青森県の板田町役場にさらに古い戸籍を請求してみた。
「4代前 葛西綱次郎」の父は「5代前 葛西○八郎」。○はなんていう字だろう?
ここまでは自力で系図に書き起こしてきたが、筆書きで読み取れない字も出てくるし、親子だけでなく、そのとき一緒に住んでいたであろう家族がすべて記載されていて、何がなんだかわからなくなってきた。「5代前 葛西○八郎」の父が「6代前 葛西〇之助」。「6代前 葛西〇之助」の前も同じ名前に見えるので、7代前も「〇之助」なのかな。
この戸籍を発行してくれた青森県の板田町役場によると、これ以上古い戸籍はないという。戸籍ではここが限界点のようだ。戸籍でわかる一番古い人名が、「7代前 葛西〇之助」。「6代前 葛西〇之助」が生まれた天保7(1836)年は、180年ほど前。ということは、「7代前 葛西〇之助」は200年ほど前の先祖だ!
「7代前とはすごいねぇ」
第2回家系図講座の開始前、美々はちやほやされていた。小さいころから生真面目で素直な美々は、男女問わず大人にかわいがられる。美々には読めなかった「葛西○八郎」と「葛西〇之助」は、『くずし字用例辞典』を持ってきていた年配の受講者から教えてもらえた。それぞれ「権」「松」の旧字らしい。直系先祖を抜き書きしてみた。
本籍地 青森県南津軽郡飯柳村五十五番戸
7代前 葛西松之助 生年不明(200年ほど前?)
6代前 葛西松之助 天保7年生まれ
5代前 葛西権八郎 弘化4年生まれ
4代前 葛西綱次郎 明治9年生まれ
3代前 葛西丑蔵 明治34年生まれ
2代前 葛西啓治 昭和7年生まれ
1代前 葛西啓介 昭和38年生まれ
本人 葛西美々 平成12年生まれ
今回も30人近く来ているが、美々のように一番古い戸籍まで取得してきたのは数名のようだ。戸籍の請求は決して難しくはないが、結構、手間暇がかかる。途中で挫折(ざせつ)した人もいれば、まだ時間がかかっている人もいる。取得組で古い戸籍を見せ合う。微妙に引っ込み思案の美々は、同年代の人の輪に入るには時間がかかるが、ご年配の輪には自然に溶け込める。
一番古い戸籍まで取ってきた人は、3~5代さかのぼれているようだ。美々の7代が最高記録だが、それはそうかもしれない。彼らの大半から見ると、美々は2代下の孫のようなもの。さかのぼる代数で競うなら、最初から有利なのだ。
!?…美々はふと思った。
今回戸籍で判明した先祖は、7代前。だけど、いつかもし私に子どもができたら、その子から見たら8代前なのか。今回取った戸籍は、大事に保管しておこう。
戸籍を系図に書き起こすとき、注意すべきポイントは?
筧(かけい)先生が颯爽(さっそう)と入ってきた。みんな席に着く。
「一番古い戸籍まで取ってきてくれた人が、何人かいるようですね」
はつらつと話す。筧先生は、家系が大好きのようだ。まずは、戸籍を取ってきた人たちに、戸籍を系図に書き起こす作業を個別にアドバイスしてくれる。筧先生のアドバイスをもとに、なんとか系図に書き起こせた。
<筧先生のアドバイス>
①松之助
戸籍は必ず戸主を中心に見ます。この戸籍の戸主は、「葛西松之助」。図表6の名前の右に「亡父松之助長男」とあります。戸主松之助の父も松之助でした。
また、右の前戸主欄にも「前戸主亡父葛西松之助」とあります。戸主・松之助の父が前戸主だったようです。「亡父」とあるのは、この戸籍ができたときに、戸主・松之助の父はすでに死んでいたということです。おそらく戸主・松之助は、前戸主である父・松之助が死んで家督を相続し戸主になったと思われます。
戸主・松之助の左の欄には、「天保七年一月十日生」、上の欄には「明治三十年一月十四日死亡」とあります。1836年に生まれ、1897年に死んでいます。当時としてはわりと長寿だったようです。
②ふゆ
「妻」というのは、戸主から見ての妻ですので、「ふゆ」は戸主・松之助の妻です。「本県北津軽郡菖蒲川村 千葉長左エ門四女入籍ス」とあります。「本県」とは戸主の本籍と同じく青森県のことです。
③権八郎
「権八郎」は、戸主・松之助の長男と書かれています。「本縣本郡横沢村 太田東藏三男入籍ス」とありますので、横沢村の太田家から葛西家に養子に入ったようです。本来であれば、「長男」ではなく「養子」と書かれるべきところですが、古い戸籍にはこのような誤りがよくあります。
「明治二十八年十月七日願済廃嫡(はいちゃく)」「明治二十八年十月十日本村大字飯田五十五番戸へ分家ス」とあります。「廃嫡」とは、戸主の権限で家督相続権を奪うことです。このとき48歳だった権八郎は、なんらかの理由で養父の葛西松之助から家督を譲らないと宣告されたわけです。その3日後、権八郎は妻子を連れて分家しました。壮年の婿養子を廃嫡にするには、何か理由があったのかもしれません。
④ふみ
戸主・松之助の長女「ふみ」です。図表6の名前の右に「長男(実は養子)権八郎妻」とあります。ここから「権八郎」は養子でもあり、養父・松之助の長女「ふみ」の夫でもあり、つまりは「婿養子」だったことがわかります。
同上夫権八郎ニ従ヒ分家ス」とあります。「同上」とは、「権八郎」の欄の「明治二十八年十月十日本村大字飯田五十五番戸へ分家ス」にかかっています。
⑤みの
戸主・松之助の三女「みの」です。「明治二十六年四月二十四日本県本郡本村大字横沢 三浦弥五兵衛二男重助妻ニ嫁ス」とあり、三浦家に嫁いでいます。
長女「ふみ」と三女「みの」の間に二女がいたはずですが、戸籍にいません。この戸籍ができたのが、明治19(1886)年前後です。そのときに、二女はすでに籍から抜けていたためです。籍から抜けた理由としては、「婚姻」「養子縁組」「死亡」「分家」が考えられますが、残念ながらこの戸籍からは知ることはできません。
しかし、ある程度の推測は可能です。長女が安政3(1856)年、三女が明治2年(1869)年に生まれているということは、二女はこの戸籍ができた明治19年前後には18~29歳の間です。女戸主として「分家」の可能性は低いです。「養子縁組」で養女に出された可能性や、若くしての「死亡」もあり得ますが、戸主が長寿であること、他に早世した人物が見当たらないことから、「婚姻」の可能性が高いかもしれません。
⑥市郎
戸主・松之助の二男「市郎」です。長男・権八郎は養子なので、実際には長男です。「明治三十年二月二十二日死亡跡相続ス」とあります。廃嫡された養兄・権八郎に代わり、戸主・松之助の跡を継いで22歳で家督相続をしたようです。権八郎が廃嫡された可能性の一つが少し見えてきました。
葛西権八郎が婿養子になった年月日が書かれていませんが、これは権八郎が明治5(1872)年以前に婿養子になったためです。取得できる最古戸籍である明治19年式戸籍は、日本最古の戸籍である明治5年作成の戸籍(壬申戸籍)の記載内容を引き継いでいます。明治5年以降の婿養子縁組であれば明治5年作成の戸籍に記載され、その内容が明治19年式戸籍に引き継がれたはずです(もちろんなんらかの記載漏れはあり得ます)。
「市郎」が生まれたのが明治7年。すなわち、戸主・松之助が跡取りとして権八郎を婿養子に迎えた後に、「市郎」が生まれたのです。もしかすると、婿養子より実の子に跡を継がせたいと考えたのかもしれません。
⑦綱次郎
戸主・松之助の孫「綱次郎」です。右に「前権八郎長男」とあります。「前」とは前の欄の意味と思われますが、通常は書かれません。古い戸籍には、このように規定から外れた書き方をされたものが散見されます。「明治二十八年十月十日父権八郎ニ従ヒ分家ス」とあります。
⑧常吉
戸主・松之助の孫「常吉」です。右に「右同父二男」とあります。「権八郎」の二男です。「同上分家ス」は、「常吉」の欄の「明治二十八年十月十日父権八郎ニ従ヒ分家ス」にかかっています。
⑨みの
三浦家に嫁いで籍を抜けた戸主・松之助の三女「みの」が再び出てきます。「明治二十五年四月二十八日本村大字横沢 三浦弥五兵衛二男亡重助妻離縁ニ付復帰ト為ル」「明治二十七年七月六日本郡藤﨑村大字葛野 阿部與四郎長男銕之助後妻ニ嫁ス」とあります。離婚し復籍したようです。その後、阿部家に嫁いで再び籍を抜けています。