十分な資産と恵まれた住環境を手に入れたはずが、定年後に孤立感へ陥る――。仕事一筋のキャリアを歩んできた人ほど陥りやすいのが、退職に伴う「社会的な役割」の喪失です。お金や自由だけでは決して埋められない定年後の深い虚無感はなぜ生じるのか、考えていきます。
「誰からも連絡が来ないんだ…」〈退職金3,500万円・資産8,000万円〉60歳元部長、タワマンの窓から東京タワーを眺める「贅沢な絶望」

突然止まった電話

「毎日、たくさんの連絡をもらっていたが、今は誰からも連絡が来ません……」

 

都内のタワーマンションで暮らす高橋雅彦さん(60歳・仮名)。大手企業の部長として手腕を振るい、60歳の定年を機に退職しました。退職金は3,500万円。金融資産は退職前から積み上げてきた預貯金や株式・投資信託などを合わせて約8,000万円。

 

会社員時代に購入した都心のタワーマンションは築8年。住宅ローンは完済済みで、毎月の固定費は管理費と修繕積立金の計5万8,000円ほどです。夫婦2人の生活費は月35万円前後で、公的年金の受給が始まる65歳までは、資産を取り崩しても十分生活できる見込みでした。

 

周囲からは「理想の引退だね」と言われました。高橋さん自身も、そう思っていました。

 

「もう朝早くに起きなくていい。会議もない。メールも来ない。これからは何に縛られることもない、自由な毎日なんだと……」

 

退職初日は昼まで眠りました。平日に映画を見て、高級ホテルのランチにも出かけました。現役時代は決してできなかったことを次々とやりました。しかし、その生活は長く続きませんでした。1ヵ月もすると、予定が埋まらなくなります。会社用のスマートフォンはありません。私物のスマートフォンに登録されている連絡先は、ごくわずかです。

 

「今日も何もない1言が始まるんだな――」

 

厚生労働省によると、60歳定年後も約9割が継続雇用を選んでいます。高橋さんの元同僚たちも、そのほとんどが再雇用で会社に残りました。そのため、平日に会える友人はいません。土日も家族との約束が優先され、都合がなかなか合わないそうです。

 

「みんな忙しいんだよ。また今度って」

 

厚生労働省『令和7年高年齢者雇用状況等報告』によると、65歳までの雇用確保措置を実施している企業は99.9%に達しています。同報告におけるデータでは、対象年齢に到達した労働者のうち92.1%(約9割)が引き続き継続雇用を選択しています。

 

令和7年度からは希望者全員に対する65歳までの雇用確保が全面的に義務化されたこともあり、定年後も働き続けることが現代の一般的なスタイルです。そのため、定年で完全に引退するケースは少数派であり、平日に同世代の友人を誘っても、周囲の多くは再雇用等で忙しく働いているため予定を合わせにくいのが実情であり、定年を境に再雇用組と退職組の間で、関係が希薄になることも珍しくありません。