(※写真はイメージです/PIXTA)
「ここの老人ホームいいよ」息子の提案に走った凍りつくような沈黙
「このまま一人で暮らさせるのは、あまりにも危険すぎる。何かあってからでは遅い」
そう確信した和樹さんは、帰省の滞在期間中、実家のパソコンを使って近隣の高齢者向け施設や有料老人ホームの情報を集めました。 パンフレットをいくつかダウンロードして印刷し、最終日の夜、夕食の席で美智子さんの前に並べたといいます。
「母さん、ここなら設備も綺麗だし、24時間スタッフがいるから安心だよ。費用はこちらでいくらか援助するから。なっ」
和樹さんは、母親が喜ぶ、あるいは安心してくれるものと考えていました。 しかし、美智子さんの反応は予想とはまったく異なるものでした。
美智子さんは差し出された資料に目を落としたまま、動きません。 食卓に沈黙が流れます。 和樹さんが「母さんのためを思って言っているんだよ」と言葉を重ねると、美智子さんは箸を置き、和樹さんの顔をじっと見つめました。 その目は、これまでに見たことがないほど冷ややかに沈んでいたとか。
「何様のつもり? 久しぶりに帰ってきたと思ったら、人の意見も聞かずに勝手に施設を調べるなんて」
震える声の美智子さん。明らかに怒っている様子でした。
「もう帰ってこなくていい、二度とこの家に来るな!」
美智子さんは、和樹さんが用意した資料を床に叩きつけ、寝室に閉じこもってしまいました。 翌朝、美智子さんと会話らしい会話もできず、和樹さんは東京への帰路につくしかなかったそうです。
和樹さんのように、子世代が良かれと思って提案した「安全な環境への住み替え」が、親の激しい拒絶に遭ってしまうケースは決して珍しくありません。 実は、高齢者の住み替えに対する意識は、年齢が上がるにつれて明確に消極的になっていくという現実があります。
内閣府『高齢社会に関する意識調査』によると、住み替えの意向(「ある」または「状況次第で将来的には検討したい」)を持つ人の割合は、年代が低くなるほど高く、逆に年代が上がるにつれて低下していく傾向がはっきりと表れています。 60代前半では約4割(40.9%)が意向を持っているのに対し、美智子さんの年齢層である75〜79歳では27.4%に減少し、80代以上になると2割を下回ってしまいます。
年齢とともに住み替えへのハードルが上がってしまう要因はどこにあるのでしょうか。 同調査で「住み替え意向があっても実現できていない理由」を年代別に分析すると、高齢期特有の心理的・身体的な壁が見えてきます。 おおむね年代が高くなるほど、「健康・体力面で不安を感じるから」「近くの病院・施設等に通院・通所しているから」「友人・知人等と疎遠になるから」を理由として挙げる割合が高くなっているのです。
さらに、そもそも「住み替えの意向がない理由」を見ても、「現在住んでいるところに満足しているから(67.1%)」に次いで、「面倒だから(19.6%)」という回答が約2割に上ります。
和樹さんが気づいたように、美智子さんはすり足になるなど、明らかに体力の衰えを見せていました。 本人がその衰えを誰よりも自覚しているからこそ、長年住み慣れた家を離れ、新しい施設で一から人間関係を築き直したり、新しい環境に適応したりすることは、想像以上に心身のエネルギーを消耗する「面倒」で「不安」なことだったのでしょう。 そのような気持ちも考えず、老人ホームへの入居が最良の選択肢と訴えた和樹さんは、少々自分勝手が過ぎたのかもしれません。
「完全に私の独りよがりでした。母に電話で何度も謝罪し、まずは『この家で暮らし続けたい』という母の気持ちを一番に尊重して、無理に施設を勧めないと約束しました。それでようやく、普通に話をしてくれるようになりました」