定年退職は人生の大きな節目であり、まとまった退職金で長年の夢を叶えたいと願う人は多いもの。たとえば「いつかは乗ってみたい高級車」という想い。長きにわたる勤労へのご褒美として、憧れの高級車は魅力的に映りますが、その高揚感はしばしば、老後の生活防衛を第一に考えるパートナーとの間に、決定的な溝を生む原因となります。ある夫婦のケースをみていきます。
 「最後くらいポルシェに乗らせてくれ」退職金2,000万円・60歳夫の“男のロマン”を粉砕した、専業主婦の58歳妻の「トドメのひと言」 (※写真はイメージです/PIXTA)

人生に一度は叶えたい夢

「若い頃、スーパーカーブームの直撃世代だったんです。いつか成功して、ポルシェのオーナーになる。その夢だけを支えに、満員電車に揺られ続けてきました」

 

都内のメーカーで営業部長を務め上げ、先月定年退職を迎えた山下隆志さん(60歳・仮名)。彼は、学生時代からの悲願を叶えるため、退職金の一部である1,500万円を握りしめ、高級輸入車ディーラーへ向かう準備をしていました。

 

山下さんの愛車遍歴は、家族のための歴史そのものでした。結婚後は燃費の良いコンパクトカー、子どもが生まれてからはスライドドアのミニバン。自分の好みなど二の次で、「家族の利便性」を最優先にしてきた自負がありました。

 

「子どもも独立したし、もうチャイルドシートもサッカーの道具も積まなくていい。最後くらい、自分が本当に乗りたい車に乗ってもバチは当たらないだろう、と」

 

リビングでカタログを広げ、妻の恵子さん(58歳・仮名)に切り出したのは、真っ赤なポルシェの2シータースポーツカーでした。

 

「これからは夫婦2人で、こいつに乗って温泉旅行に行こう。どうだ、かっこいいだろう?」

 

しかし、恵子さんの反応は、山下さんの高揚感を一瞬で凍り付かせるものでした。彼女はカタログを一瞥もしないまま、家計簿をつける手を止めずにこう言いました。

 

「そんな座り心地の悪そうな車、私は絶対に乗りませんから」

 

「い、いや、でもこれは男の夢で……」と食い下がる山下さんに、恵子さんは追い打ちをかけます。

 

「あなたが男の夢を叶えるというなら、私も女の夢を叶えてもいいのよね」

 

そして、トドメの一言が放たれました。

 

「還暦過ぎてポルシェを買うなんていう男から自由になることね、女の夢は」

 

山下さんは何も言い返せませんでした。

 

「それに築30年の一戸建てにポルシェなんて……似合わな過ぎて、近所からの笑いものにされるわ。ポルシェを買うなら家も建て替えないと。そんなお金、うちにあるのかしら?」

 

現在、山下さんのガレージには、妻の希望通り、最新の安全装備がついたクリーム色の軽ハイトワゴンが納車されています。

 

「広くて燃費も良くて、確かに便利です。でも、ハンドルを握るたびに、私の人生のクライマックスはこれだったのかと……」