仕事一筋だった夫を襲った、突然の悲劇
玄関のドアを開けて飛び込んできたのは、廊下に倒れている洋子さんでした。呼びかけても、体を揺さぶっても反応はありません「まさか――」。血の気が引くのを感じながら、震える手で救急車を呼びました。
診断の結果は急性硬膜下血腫。幸い、発見が早く、一命を取り留めることができました。しかし左半身に麻痺が残り、言語障害も併発。医師からは、今後の生活には常時介護が必要になると告げられました。昨日まで当たり前にあった日常が、一瞬にして奪われた瞬間でした。
「洋子を……介護……」
これまで家事の一切を洋子さんに任せきりだった健一さんにとって、それはあまりに現実離れした世界でした。仕事の付き合いで家を空けることも多く、洋子さんがどんな一日を過ごしているのか、何に悩み、何を楽しみにしているのかさえ、深く考えたことはありませんでした。そんな自分が、妻の介護を担う――その重圧に、目の前が真っ暗になりました。
健一さんのようなケースは、決して他人事ではありません。厚生労働省『令和4年 国民生活基礎調査』によると、配偶者が介護する割合は23%。介護者は全体で364万人ほどなので、83万人ほどが配偶者の介護にあたっています。さらにそのうち男性が占める割合は35%。つまり、約30万人が、健一さんと同じように妻を介護していることになります。
顧問の仕事は、当然続けられる状況ではなく辞任。体と言葉が不自由な妻とふたりきりの生活が始まりました。食事の準備、排泄の介助、入浴の手伝い……。すべてが初めての経験で、戸惑うことばかり。慣れない家事に四苦八苦する毎日が続きました。何より辛かったのは、言葉をうまく発せない妻とのコミュニケーションでした。何を訴えたいのか、どこか痛むのか。汲み取ってあげられない自分に、無力感と焦りが募っていきます。
そして日に日に増していくのは、洋子さんへの申し訳なさと、過去の自分への後悔。「仕事が忙しい」を言い訳に、妻との老後を先延ばしにしたこと。軽く「温泉でも行くよ」と言ったことさえ、実現させることができなかった自分を責めるしかなかったのです。
順風満帆に見えたエリートサラリーマンの老後は、妻の突然の病によって、「老後崩壊」ともいえる状況に一変しました。さらに健一さんは介護を必要とする妻との生活だけに閉じこもることに。介護は肉体的・精神的負担が大きく、介護者は自分の時間や趣味などに費やす時間が大きく減少。介護に関する悩みや不安を共有する相手がいない場合、社会的に孤立するケースも珍しくありません。介護負担が最悪の結果に――そんなニュースを目にしたことがあるでしょう。健一さんも同じように、社会から孤立する恐れがありました。
そのような状況から救ったのが、元会社の同僚。健一さんの状況を知り、以前にもまして連絡をしてきてくれたり、ときに家にまで様子を見に来てくれたりするようになったといいます。「こうやって、気にかけてくれる人がいる……そんな関係を築くことができたのも、すべて妻のおかげです」と、改めて妻・洋子さんに頭の上がらない健一さん。最近、介護付き旅行というサービスがあることを知ったといいます。「これであれば、妻と一緒に旅行に行けるかもしれない」と嬉しそうに話してくれました。
[参考資料]
厚生労働省『令和4年 国民生活基礎調査』