学生生活を終えても社会に踏み出せず、自室に閉じこもる――ひきこもりは単に個人の問題ではなく、現代社会が抱える深刻な課題の一側面です。就職氷河期、不安定な雇用、競争社会のプレッシャー……。様々な要因が若者たちを社会との接点から遠ざけ、ひきこもりが長期化することも。本記事では、岡本圭太氏の著書『ひきこもり時給2000円』(彩流社)より、同氏の実体験からひきこもりの当事者の葛藤をみていきましょう。
就職に失敗。自室に閉じこもった「早稲田大卒・氷河期世代の当時24歳男性」…「たった5文字の言葉」に救われたワケ ※画像はイメージです/PIXTA

自分の置かれた状況が何と呼ばれるものなのか?

ひきこもっている時期の僕は、とにかく混乱していた。自分の置かれた状況がまずいものであるという事実だけは明確に意識できるものの、もはや自分がいったい何に困っていて、自分の置かれた状況が何と呼ばれるもので、これからどっちを向いて歩けばよいのか、さっぱりわからなかった。地図も、磁石も、標識も、指針となるべきよすがもない。何が何だかわからない。いわば方向喪失状態。あるいは軌道を外れた人工衛星のような気分。

 

ひきこもり生活の後半、僕は自分が置かれた状況を知りたかった。自分の名前を、自分がどこに立っているのかを知りたかった。病気なら病気で構わない。精神病と言われれば喜んでそれを受け入れよう。いいから早いところそう呼んでくれ。精神病と言われて嬉しいはずはないが、でも「自分は病気なのだ」ということだけは言える。でも今のままでは、それさえもが叶わない。経験したことのある人ならわかると思うけれど、自分が何者でもないという状態は、大概の人が想像するよりもずっとつらく、苦しいものなのだ。「誰かに相談したい。そして自分の現在地を理解したい」。それが当時の僕が希望していたことだった。

 

だが、問題がひとつあった。どこに相談に行けばよいのかわからないのである。

 

そもそも自分の状態が定義できないのだから、どこに相談に行けば良いのかもわからない。歯が痛いから歯医者、お腹が痛いから内科、というわけにはいかない。僕は途方に暮れた。

 

家にあった黄色い電話帳で「カウンセリング」の項目を調べてはみたけれど、そこにはあまりに多くの選択肢が並べられていた。そのうちのいったいどこなら自分の悩みを受け止めてくれるのか、僕には皆目見当がつかない。

 

カウンセリングの料金にも心を挫かれた。はっきりいってどれも高い。60分で8000円とか、1万2000円とかする。安くても6000円。こういうのは一回だけで終わるものではないから、少なくとも何回か分の金額は必要になる。5万とか10万とかは覚悟しておかなければならないだろう。500円が大金であり、1枚1500円の輸入盤の音楽CDさえ買えなかった当時の僕にとって、それはとうてい手の届かない金額だった。

 

それに、もし仮にそれだけの金額を捻出できたとしても、行った先のカウンセラーが、病気ですらない僕の悩みを受け止めてくれるという保証はどこにもない。行った先で「お前はただの甘えた人間だ」と悪しざまに糾弾されるかもしれない。高いお金を払ってそんなことを言われたら、それこそ目も当てられない。ただ単に高いお金をどぶに捨てるだけかもしれない。有り金をポーカーのテーブルに乗せるにしては、それはあまりにもリスクの高い賭けだった。

 

そのような事情やリスクがあったがために、僕は「どこかに相談に行きたい」という自分の気持ちを目に見えるかたちに置き換えることができなかった。焦りと苦しさだけが膨らんでいく。

 

そして月日だけが流れた。