つらい出来事は誰にもある、対話の力で乗り越えられる人に
我が家は夫婦共にフリーランス、5年先どころか来年もどうなっているかわからない生活を、30年余り続けてきました。結婚した当時は、夫が4球団も渡り歩くとは思いもよらず、故障続きで苦しむ姿に「出口の無いトンネルもあるのだなぁ……」と思ったほどです。
中日からロッテにトレードになった翌1997年、自由契約を告げられた与田は、悩んだ末に入団テストを受けることを決めました。60年という長いプロ野球の歴史のなかで、ドラフト1位や新人王を獲った選手がテストを受けた例はなく、メディアからは「プライドを捨てたのか?」という辛辣な質問を投げつけられたこともあります。
当時はトライアウトというシステムもありませんでしたが、その後しばらくして、東西1日ずつのトライアウトの機会が設けられました。「可能性が1%でもあるなら続けたい、自分がテストを受けることで後輩がもっと受けやすくなるなら嬉しい」という彼の言葉が、良い形になったようで嬉しく感じました。
そんなシステムの前は、個人的にお願いをして見ていただくわけですが、幸い、日本ハムに入団することができました。1年目は肘の手術とリハビリに費やしましたが、翌年、実に1620日(4年と5ヵ月)ぶりに一軍のマウンドを踏むことになります。残念ながら、トンネルは出たものの見事復活とはなりませんでした。しかし、プロ野球生活で得た「上手くいかない」という時期の経験、プロセスは間違いなく本人にとって大きな財産になったように見えます。
体験と言えば、中日時代の94年にメジャーの元コーチであるトム・ハウスさんを訪ねてサンディエゴへ夫婦で行ったことも忘れられません。トムさんとは、あの有名なノーラン・ライアンのピッチングコーチを務めた方です。
前年の中日の秋季キャンプへ臨時コーチで来られた折、「もしかしたらライアンに会う機会を持てるかもしれない」とおっしゃって、アメリカでの自主トレをチーム全員に提案して下さいました。しかし、渡米したのは与田一人だけ。皆、行ってもライアンに会える保証がない、行ったからといってすぐには変わらない、旅費が勿体無い……などなど、現実的な理由から行かないという選択をしました。
しかし、不調に苦しむ与田は、当時47歳で引退したばかりのライアンから何か学べればと決断したのです。